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東日本大震災情報
逆境乗り越え「前」へ一歩
生徒に託された未来を見すえて

=宮城県農業高校を訪ねて=

 専門学校新聞社の社員・社友によって設立されたNPO法人仕事への架け橋が主催する全国高校生・高等専修学校生対象の「私のしごと」作文コンクール。昨年の第7回大会に「東日本大震災若者応援メッセージ」を冠して実施したところ、応募総数(4104編)の3割近くが大震災に関する作文だった。文部科学大臣賞には宮城県農業高等学校の相澤和久さんが輝き、また同校の佐藤禎俊さんが優秀賞を受賞した。あの日、あの時、巨大津波により壊滅的な被害を受けた宮農はどうなっているのか。あれから1年を経て同校を訪ねた。(東日本大震災特別取材班)

 津波で壊滅的な被害

 創立127年の伝統と実績を誇る宮城県農業高等学校。自らの力で、自らの道をひらく「自啓」を校訓に掲げ、「自然を愛し、心身ともに健康でたくましい生徒を育てる」を教育目標としてきた。校歌の作詞者はあのあまりにも有名な土井晩翠である。

 学校要覧の表紙は、広大な農場実習地やグラウンド、幾棟もの校舎群が並ぶ“宮農”の航空写真で飾られている。あの東日本大震災により誘発された巨大津波は、仙台平野の名取市の田園地帯も容赦なく呑み込み、宮農もその犠牲になった。校舎や農業実習場、グラウンドは壊滅的な被害を受け、あれから“顔晴ろう宮農”が合言葉になった。

 県内3校に間借りして

 宮農には農業科、園芸科、生活科、食品化学科、農業機械科の5学科が設置され、689人の生徒が学んでいた。生徒の保護者8人、生徒3人(内1人は昨年3月卒業者)が津波の犠牲となった。また家屋の全壊43人、家屋の流出27人にも及ぶ。

 しかし、次代の農業等を担う若者を育てている宮農にとって、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。昨年の5月9日から“復興宮農”をスローガンに柴田農林高校(農業科、園芸科2・3年)、亘理高校(生活科、食品化学科1〜3年)、加美農業高校(農業科、園芸科1年、農業機械科1〜3年)の3校に分散して授業がスタートした。

 名取市から約60キロと最も遠い加美農には239人が大型バス6台に分乗し、片道1時間半をかけて通学した。1時間目と6時間目の授業はバスの中。車内ではDVDやプリントを使って授業が繰り広げられた。

 7月末までこのような状態が続き、9月1日から現在の仮設校舎で一斉授業がスタートした。角田高校で使っていた仮設校舎を新校舎の完成により移築したもので、取材に応じてくれた橋浦勉先生は「教室が足りずに特別教室も一般教室として使用している。また食品化学科の実習は、従来どおり亘理高校で行われている」と語り、仮設校舎でみんなが一緒になっても、変わらない教育環境の不備を指摘する。

 宮農はつながっている

 授業の不便さに加えて、クラブ活動にも大きな支障をきたしている。橋浦先生によると、馬術部は3頭いた馬が津波で失われ全く活動できない状態だ。陸上部が使うグラウンドは、近くの残土置き場を先生方が重機で整地し、新年度から使えそうだという。野球部は近くにあるクリーンセンターを整地して、これも近いうちに何とか使えそうになるという。ウエイトリフティングの練習場は温室、ボクシングは卒業生のビニールハウスを借りてリンク替わりに使っている。

 野球部の部員は「グラウンドが流され、本格的な練習が出来ない。ストレスも溜まります」と現状を嘆く。

 たまたま取材に応じてくれた生徒6人に将来のことを尋ねると、異口同音「恩返しをしたい」という答えが返ってきた。〜顔晴ろう宮農〜には全国から支援の手が差し伸べられた。県内外の農業高校からはもちろんのこと、著名な音楽家や外国からも有形無形の様々な支援が寄せられ、宮農の生徒は「一人じゃない」「つながっている」と感じ、勇気付けられたという。

 大きな実績残して巣立つ

 3月1日、213人の生徒が巣立っていった。卒業式場は、いつもの校舎ではなく岩沼市民会館だった。白石喜久夫校長は「教育環境が劣悪で恵まれない中、生徒はこの1年間、本当に頑張って就職や進学でも大きな実績を残してくれた」と卒業生を称えている。

 卒業生の8割近くが就職を希望、1人を除いて全員の就職が決定した。震災で求人数が心配される中で、就職者の9割近くが県内に就職し、4月から社会人の仲間入りをして復興の一端を担う。また大学・専門学校等への進学も例年に比べて変化はなかった。

 震災後、文部科学省から特別にカウンセラー1人が週1回派遣された。また宮城県からも月2回カウンセラーが派遣され、延べ517件の相談に応じたという。白石校長は「自分の殻に閉じこもってしまう生徒はいなかったように思う。生徒への心の支援体制が、結果的に卒業後の生徒の進路にもよい影響を与えたのではないか」と分析する。

 ただ気になるのは、今後の宮農志望者の動向だ。高橋和樹先生によると、来年度初めて定員割れが出そうな科もあるそうで、1日も早い宮農の復興が待たれている。

 復興までに5年の歳月

 宮農復興の青写真は、これからどのような形で描かれていくのか。白石校長は「学校には寮もあり、24時間生徒を預かる場所として震災前の校舎に戻ることはありえない」と話し、県教委がこのほど発表した全体像を明かしてくれた。それによると、校舎は内陸部にある名取市の西部地区に移転する。完成は5年後の2017年ということだった。

 白石校長は「仮設校舎に入って、仮設で卒業する生徒も出る。生徒には大変不便をかけて気の毒で申し訳ない」とした上で、「同じような環境が東日本にはたくさんあり、甘んじて受けざるを得ません」と表情を曇らせた。

 宮農の復興には、教育環境の整備が欠かせない。校舎の完成まで5年、学校関係者はもちろん、保護者も在校生も1年でも、半年でも早い校舎の完成を待ち望んでいる。

 「今の宮農はいろいろな人の支えがあって成り立っている。宮農が今すごく元気で、以前の宮農に戻り、それを越えようと頑張っている姿を全国の人にみせていきたい」とは、取材に応えてくれたある生徒の力強い言葉だ。「宮城県の農業を支えられる人間になりたい」「悲しい顔ばかりでなく、少しでも楽しい顔を」「4月から社会人になって、今度は私たちが恩返ししたい」。取材の中で、生徒から逆に励まされる言葉をたくさんもらった。“顔晴ろう、宮農”というスローガンと彼らの言葉が重なり、宮農は必ず復興すると確信した。

 「一人でも多くの人に被災地を直接見てもらいたい。映像ではなく、改めて被災地を肌で感じて欲しい」と訴える生徒の言葉をしっかりと受け止めて、仮設校舎を後にした。


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