京都府立聾学校高等部3年

波多野 文 佳
 

「幸せに生きるお手伝い」
 
 平成22年には超高齢化社会に突入し、4人に1人が65歳以上の高齢者という計算になる。私にも、今年93歳になる曾祖母がいる。私が中学生の時から『いこいの村』という特別養護老人ホームで生活している。私は母と何回か面会に行き、食事のお世話をしている。そのときの曾祖母のにっこりとしたかわいらしい笑顔を見ているうちに、こっちの心も温かくなった。そのころから福祉関係の仕事もいいなと思い始め、介護福祉の仕事に興味がわいてきた。

 私は生まれつき聴覚に障害がある。2歳の時に聞こえないと分かったときから、両親をはじめ学校の先生、友達などいろいろな人に助けられてきた。聾学校では、手話を使うことで不自由を感じることなく生活している。また、中学校までの地域での生活は、周囲の人たちとのやりとりの際、口を大きく開けてもらったり、筆談してもらったり、聞き取れないことがあっても誰かが助けてくれていた。

 そのおかげで今の私があると思っている。だから、今度は自分が助けられる側ではなく、助ける側に立ち、今までの恩を返したいという思いも、福祉関係の仕事に就く道を選ぼうとしている動機となっている。

 でも、聾学校を卒業し、一般社会に出たときの私にとって、コミュニケーションが最大の問題になると感じている。それは、こんな体験があったからである。

 3年になり、インターンシップで『松寿苑』という特別養護老人ホームで実習することになった。そこには「聞こえない人」はいなかった。利用者のなかには、口を大きく開けて話すのが苦手な方が多く、さらには、特別養護の高齢者なので、筆談しようにもペンを持つ握力がない。利用者のあまり動かない口の動きを、必死に読み取るしか方法がなかった。覚悟してはいたが、ほとんどコミュニケーションは成立しなかった。そのために、相手の思いがほとんど分からず、利用者から「もうええわ」と怒られたときもあった。

 一番ショックだったのは、利用者がずっと「おしっこ」と訴えていたのに、分からないままだったことだ。大声で怒鳴られ、やっと気づく始末。利用者が職員の人と楽しそうに話されている様子を見ると、「やはり、話の分かる人といる方がいいんだろうな」と落ち込み、同時に「聴覚障害者の私には、この仕事はむりなのだろうか」という気持ちも抱いたのである。

 けれど、日が経つにつれて利用者とも打ち解け始め、少しずつではあるが、利用者の口の動きにも慣れてきた。そして、介護のお手伝いをしたときに、利用者に「ありがとう」と笑顔で言われたときは、胸に熱いものがこみ上げてきた。

 最終日、折り紙で折った小銭入れの鶴の袋を贈ったときは、とても喜んでもらい、「ありがとう。またきてや」と言われた。単純かもしれないが、やっぱりこの仕事を目指そうと改めて思った瞬間であった。

 実習先を去るとき、職員の方が「介護は技術ではなく心だ。介護が下手でも利用者を思う心があれば必ず相手に通じる」と言ってくれた。また、ある介護施設で働いている外国の女性が、「利用者とは言葉が通じないけれど、心でつながっています」と語っていたことをテレビで見た。私には目から鱗。私の抱いていた心配が消えていった気がした。

 私は今、福祉の勉強をするために大学への進学を目指して頑張っている。障害を持っているけれど、コミュニケーション方法はひとつだけではないはず。心でつながって、必ず高齢者の支えとなれる、そんな仕事をしたいと思う。

 福祉を充実させれば、利用する側が幸せになるだけでなく、お手伝いする側も喜ぶ姿を見て幸せになれる。その輪を広げていけば、超高齢化社会になろうと、私たちの社会は、健常者も障害者も、若者も高齢者も、共に幸せに生きていく社会になれる―ということを忘れずにいたい。


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