武蔵野東技能高等専修学校(東京都)3年

渡 部 麻衣子
 

「母が教えてくれたこと」
 
 私が初めて「しごと」を意識したのは、中学1年生になった4月のことだった。父が、「しごと」上のストレスで「うつ」になり退職したことが、「しごと」を意識するきっかけであった。「しごと」は、それまで元気だった父を壊してしまった。

 「しとご」は、それほどまでに過酷なのか、社会は人を壊してしまうほど残酷なのか。「しごと」や社会への恐怖が、私の中で芽生え、次第に、私を無気力にさせていった。そして私は「不登校」になった。4つ年上の兄も、大きな環境の変化の中で、精神的に押し潰され、家族がばらばらになっていった。

 以前、家族の崩壊を描いた「積み木くずし」という本がベストセラーになったと聞いたことがあるが、本当に積み木が崩れるように、私の家族は崩れていった。

 しかし、その中で、家族を支えたのが、母だった。

 母は当時も、今も保育士として働いている。

 母は、ばらばらになり、怒りと絶望に満ちていた家庭の中にあっても、保育園の子供達を喜ばせるためにお手製の紙芝居などを作り続けていた。絶望的な雰囲気の漂う家庭の中でも子供達のために何かを作っている母の表情は生き生きとしていた。そして、母は無機質な表情だけを浮かべる家族に向かって嬉しそうに子供の話をし続けていた。母が話す子供達の話に耳を傾ければ、自然と笑顔になることもあった。「子供が与えるパワーは本当に大きいのよ」。口癖のように母は言っていた。

 母は何故こんなにも強いのだろう。何度もそう思ったことがある。しかし、私が中学2年生の時、母にも限界が訪れた。父と同じように「うつ」を患ったのである。きっかけは職場の人間関係と、家族が抱える多くの問題によるストレスであった。

 大好きな子供達に会える保育園に通勤する事が次第に負担になっている様に見えた。無理を積み重ねていく母に、医師は休養することを勧めたが、家族の生活を第一に考えた母は職場を辞め、すぐに新しい保育園で仕事を始めた。学校に行かない不登校の私にはそうした母の強さが、不思議に思えてならなかった。

 「学校へ行くことが怖い」と、学校へ行くことが、高層ビルから飛び降りるくらい勇気がいることであった私にとってその姿勢は、一歩退くほど、神々しいものであった。

 そして、母は新しい保育園で2歳児のクラス担任になり、クラスの自閉症の男の子と毎日格闘を始めていた。母は専門的な知識はあるものの自閉症の子供を担当するのは初めてだった。引っかかれたり、物を投げ付けられた時に出来た傷や痣が絶えなかった。私は母から話を聞くだけで、自閉症という障害が、どんな障害であるか想像もつかなかった。ただ確実に伝わってきたのは、母は苦戦しながらも少しずつ自閉症の男の子と信頼関係を築いていることであった。

 夏に撮影した男の子と母が写った写真を見せてもらった時、笑顔で向き合う2人の姿を見て、母が保育士として奮闘する姿を感じ、私は正面から「しごと」に向き合う姿勢を学んだ。

 そんな母の姿を見ながら、「どうして人は『しごと』に就くのだろう」と考えた。父を壊し、母も蝕んでいった「しごと」に、何故、人は関わるのだろう。生活のため、お金のため、理由はそれなりにあるのだろうが、納得のいく理由は見つからなかった。しかし、母の姿を見て、人は「しごと」を通じて、人や社会と繋がり、自己実現をするのではないかとうっすらと意識するようになった。

 私は、高等専修学校を卒業後、「しごと」に就く。そこで、私は、人や社会と繋がり、私自身を見つけていくのではないか、と感じている。

 「おかえり」。学校から帰宅した私に、今日もまた母は笑顔で子供達の話をしてくれる。そんな母が、私の理想の職業人である。


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