安城生活福祉高等専修学校(愛知県) 3年

都 築  真 美
 

「笑顔の選択」
 
 私には2つ上の姉がいる。父と母、祖父、祖母と、家族皆が働く中、私に“働く”ということを強く感じさせてくれたのが、その障害者の姉だった。

 小学校5年生の頃、私は初めて“シンショー”という言葉をきいた。初めて耳にした時は、何を指す言葉なのかわからなかった。

 「あいつ“シンショー”だよ」

 たまたま一緒にいた友達の一人が言った。特に仲が良い訳でもなく、本当に偶然居合わせたくらいの友人は、一人の友人を遠目に顎で指しながら言った。

 その様子を、同じく一緒にいた子たちが話すのを聞き、その時やっと“身体障害者”の意味なのだと理解した。決して“シンショー”と言われた子は障害者ではない。ただ、“身体障害者のようだ”と見下し、馬鹿にする口調だった。

 “シンショー”という言葉を用いて当時の友人たちが笑う中、私は笑えなかった。

 当たり前のことだ。“障害者”という事を悪口とし、面白がることが自分には理解できなかったからだ。それと同時に、障害を持つ方を、姉を笑うネタにされているのだと考えると、怒りしかわいてこなかった。でも、友人には言えなかった。

 中学校に入り、職場体験というのがあった。その名の通り、職場へ行って仕事を体験させてもらうことだ。

 私は障害を持つ方々が集う会へ行きたいと担任の先生に意思を伝えた。何も問題無く、私はその会へ行くことになる、はずだった。

 そのことを友人に話すと、その友人は笑い始めた。近くの友人達を集め、皆で笑い出したのだ。

 「あんた、そんな所に行きたいの?」

 大きな声で笑いながら言う友人達を見て「ああ、またか…」と、一人黙り、呆れて思った。

 後日、「職場を変更したい」と担任に告げた。

 私は周りの目に負けてしまったのだ。

 先生は悲しそうな顔をしながらも、職場の変更を認めてくれた。

 辛い、と同時に情けなくなった。私はまた人の目を気にして望みを捨てたのだ。それ程に障害者の方と関わる自分が恥ずかしいのだろうか。以前より成長したつもりでいても、簡単に想いを曲げる自分が嫌になった。

 その頃、私は不登校になる。前記のことが原因という訳ではないが、何より心が弱くなっていた。家族の重い雰囲気の中、今思えば、ずっと変わらなかったのは姉だけのように思えた。

 高等専修学校へ進学し、再び不登校になる1年生の半ば、姉は高校卒業を控えて職場へ実習に行くようになった。私が2年になる年、姉は養護学校を卒業して社会人として働くようになった。日替わりにいくつかのお店で、週5日毎日職場へ出かけていった。家から離れられずにだらだらと毎日を過ごす自分に比べ、姉は自立した一人の“大人”として社会にいる。私にとってはそれが、とにかく凄いことだと感じていた。

 私は、姉よりもしっかりしているつもりだった。しかし実際姉は、私よりずっとしっかりしていて、家族・社会の役にたっていた。

 そして今、18歳を迎えて、今度は私が卒業を控える。一層“働く”ということを意識し始める。中学・高等専修学校生活の大半が“無い”自分には、どうしようもなく不安で仕方ない。でも、初めから“逃げる”という選択肢は無いのだ。

 私は今、姉と手を繋いで歩いている。もう、迷いたくはない。姉のように真っ直ぐに、自分の想うように生きてみたいと思う。それが私の、家族の、皆の笑顔に繋がると信じて生きたいのだ。


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