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「私の理想とする職業人」 | ||||
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私の祖母は池島という島で民宿をしています。池島はかつて、炭鉱が採掘されましたが2001年11月に炭鉱が閉山しました。約5千人以上いた人口も、炭鉱が閉山し8年経った今では2百人程度にまで減少しました。島の特色の一つである炭鉱が無くなり、祖母の民宿に来るお客も激減しましたが、それでも祖母は民宿を続けました。 私は幼い頃から夏休みや冬休み等の長期休暇になると祖母の民宿にあずけられました。母は仕事が忙しかったので、学校に行く必要のない長期休暇中に毎日私を1人にさせてしまうのが不安だったのだと思います。私の家から池島までは車で何時間もかかる上、船にも乗らなければならないので、祖母の民宿に行くということは、長い間母に会えないということです。幼い頃は、それが悲しくて祖母の部屋の片隅で泣いてばかりいました。そんな私の様子を見た祖母は、忙しい民宿の仕事の合間に私を慰めてくれました。 祖母の娘、つまり私の母は4人兄妹の三女です。祖父は癌で早くに亡くなったので、祖母は女手一つで4人の子供を育てながら民宿を切り盛りしました。あまりの忙しさに、当時はトイレに自由に行く暇も無かったと祖母は言っていました。やがて4人の子供たちは成長し、島を出ていくようになりました。祖母は民宿を子供たちに継がせようとはせず、それぞれの夢を実現させるよう後押ししました。そして民宿には祖母1人となりました。 毎日のように来ていたお客も炭鉱閉山後は数ヶ月に1人。民宿は赤字状態ですが、祖母はお客にご馳走を出し、宿泊料金はほんのわずかしか取りませんでした。私は何度も、「お客様もあんま来ないし、長崎に住まんね」と、祖母に言いました。しかし祖母は、「いいや。宿泊施設が一つくらいないと、池島に来た人が困るけんね。」と返事をしました。お客のために嬉しそうに料理を作る祖母の横顔を、私は池島に来る度に見ました。 ある朝、祖母が脳梗塞で倒れました。前日から具合が悪かったのに、午後からお客が来る予定だったので、無理していたのです。何とか一命を取り止めたのですが、私が病院に行った時、痩せて別人の様になっていました。それでも池島に戻りたいと、祖母は何度も言っていました。もし、またこのようなことが起きた時に、安全である保障はどこにも無いのに、それでも池島と共に生きることを祖母は選びました。 祖母は私をずっと見てきてくれました。私も祖母を幼い頃からずっと見てきました。そして、池島の色んな表情を見てきました。だから祖母の気持ちが何となく分かるのです。40年間住み続けた池島、そして民宿という仕事に対する誇りを手放したくない気持ちを祖母は持ち続けたのです。炭鉱の採掘が始まって約50年間、全盛期と閉山後、池島は移り変わってきました。でも祖母の仕事に対する情熱は、40年間変わることはありませんでした。 現代社会では、一つの会社に居続けず、色々なアルバイトを転々とするフリーターや、ニートが沢山います。そのようにして生きる人たちにもそれぞれの理由があると思います。ですが私はこのような時代に産まれたので、祖母の様に一つの仕事に誇りと責任を持つ生き方に憧れます。 そして将来、私が社会人になった時に、こうでありたいです。私はきっと、祖母の仕事である民宿とは全く関係のない仕事に就くでしょう。ですが、どのような仕事に就くことになっても、自分の仕事を愛し、誇りを持ったまま変わらない祖母の様な職業人に私はなりたいです。 |