岩手県立遠野緑峰高等学校 1年

濱 田  由 治
 

「15回目の誕生日」
 
 『好きで、生まれてきた、訳じゃない…』ふと、そんなふうに思った時があった。

 『好きで、生き残った、訳じゃない……』誰にも言えない思いを、奥歯で噛み潰した時があった。

 けれども、今はそう思わない。

 15年前の3月11日。僕は生きようと必死にもがいたはずだ。母と一緒に死に物狂いで頑張ったはずだ。そうでなければ3000gの人間の命が、この世に生を受ける奇跡なんて在り得なかったのだから。

 今年の3月11日。僕は生きようと必死にもがいたはずだ。僕を助けようとしてくれた沢山の人と死に物狂いで頑張ったはずだ。そうでなければ、あの状況の中、僕が生き残る奇跡なんて在り得なかったのだから。

 2011年3月11日の午後。僕は宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)中学校『卒業を祝う会』で、地区公民館にいた。会場は、同級生とその父母、100人を超える人の笑顔と笑い声があふれていた。この日は僕の誕生日で、母と妹は僕のバースデーケーキを買いに会場を離れていた。

 14時46分、経験したことの無い大地震で会場の表情は一変した。周りのあちらこちらから『津波が来るかもしれない』という言葉が聞こえる。僕は最初、『絶対に津波なんか来ない』と思っていた。少しして、心配した母が僕を迎えに来た。それが記憶に残る最後の母の姿になった。

 数分後、黒いカベのような波は目の前に迫っていた。建物の床上に上がった水の流れは、あっという間に深さと勢いを増して逃げようとする足もとをすくい、僕を水の中に引きずり込むようになぎ倒した。冷たい流れの中、僕は感じた。“体力の限り頑張ること、あきらめないこと”が、どれほど大切なのかを。

 水面に出た時、流れる大きな木を見つけてしがみ付いた。どれほどの時間そうしていたか、何処をどう流されたのかも分からない。建物の2階に流れ着いた僕が自衛隊の捜索によって助け出され、救急車で病院に搬送されたのは翌日。低体温症での入院は1週間ほど続いた。多くの人の力で、僕の命の灯は消えなかった。

 母と妹の安否が分からないまま、僕は病院を離れ、母の故郷遠野≠ナ無事を祈り続けた。しかし、叶わなかった。母と妹の訃報を聞いた日、僕は声を上げて泣いた。涙が枯れる頃、15歳の誕生日を過ぎてから何一つ自分で決めることが出来なかった僕は、初めてたった一つの事を決めた。“希望は捨てない”

 あの日から4か月、今になって感じる事が沢山ある。最初、もう出来ない事ばかりが頭に浮かんだ。母との思い出をふり返ってみると楽しい事ばかりが浮かぶ。

 就職したら母にしてあげたい事もあったのに、それも何一つ出来ない。出来ない事の一つ一つが心の底から浮かび上がっては弾けて消える泡のようで、本当に辛く感じた。

 友達や知り合いの大切さも身に染みて感じた。僕の携帯電話は水没し、何処へも連絡を取る手段は無かった。家族の安否すら確認できず、どうすればいいのかさえ分からない入院中の不安な日々。数日後、病院を訪ねてきた母の友人にとても沢山の事をしてもらった。

 今、僕は母の実家の伯父さん一家にお世話になって岩手県立遠野緑峰高校に通っている。少しずつ新しい生活になれ、クラスの中に友人も見つける事が出来た。

 僕は、生きている。15歳の誕生日を沢山の人の善意に支えられて必死で闘って生きている。ちょうど15年前のように……。

 15年前の誕生日。僕が生まれた事を、母は誰よりも喜んでくれたはずだ。15回目の誕生日。僕が生きるために闘った事を、頑張った事を、“希望を捨てずに生きる”と決めたことを、母は誰よりも喜んでくれるはずだ。

 将来、僕は、生きるために、生き続けるために“仕事”をしたい。そのための力を今つけたい。“希望は捨てない”と決めたから。


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