福島県立双葉高等学校 3年

小荒井  美 咲
 

「未来」
 
 もしもあと5年位早く生まれていたら、私は人の命を救えていたのだろうか。

 私の将来の夢は、看護師になることです。高校3年生の受験の時期がだんだんと近づき、私も夢に向けて決意が固くなってきたところでした。そんな時に、東日本大震災。あの日を絶対に私は忘れない、忘れてはいけない。そう心に誓いました。

 あの日は、いつもと変わらない普通の日。U期選抜の採点のため4校時で下校だった私の高校は、部活動で校内に残っている生徒もいれば、下校している生徒もいました。私は吹奏楽部でその日の部活動は休みだったので、家に帰り母とお昼を食べ、のんびりとくつろいでいました。そして午後2時46分。地震が起こりました。私と母はテレビを消してこたつに寝転がっていました。次第に大きくなっていく揺れ。母は食器棚を押さえに、私は玄関のドアをあけに立ち上がりました。その時、あまりの強い揺れに、お風呂にはっていた水が部屋の中に入ってきました。これはただ事ではない…。そう思い、私と母は外に出ました。

 外はなんとも言えない恐ろしい光景。遠くから泣き叫ぶ子どもの声、近所の瓦が崩れ落ちていく凄まじい音、こんな表現をしてはいけないけれど、家一軒一軒がまるでプリンの様に揺れていた。この事を思い出すだけで私はとても胸が苦しくなる。そして空一面が鳥達で真っ黒になった瞬間、私は、もう地球が壊れてしまうと思いました。

 こんな出来事、原稿用紙4枚でなんか書き表せない。しかし恐しい程に時間は早く過ぎていって…。気づいたら日付けが変わっていました。一睡も出来なかった。地震の次の日の早朝、今ではもはや知らない人はいないであろう、福島第一原子力発電所の問題で私達家族は避難しました。何か所の避難所を回っただろうか。もう数え切れない。

 一日におにぎり2つの生活が続きトイレは詰まって入れない。お風呂なんて入れる訳もない。みんなギリギリでした。でもこの状況で私はとても貴重な実感を手に入れました。それは人の心のあたたかさです。みんなみんな、優しかった。同じ被災者なのに毛布を分け合ったり、食べ物を分け合ったりみんなみんな笑顔になっていた。

 私は思わず胸が熱くなった。人ってこんなに強いんだ、きっと日本は頑張れる。そう思いました。けれどやっぱり、物資があまり届かず、避難していた人達で体調が悪いと訴える声が徐々に多くなっていって倒れてしまう人が何人も現れました。正直、私は怖くて怖くて見ていられませんでした。でも、助けたい。でも、私には何も出来ない。看護師を目指しているのにただひたすら怖くて、将来の自分を想像するとゾッとしました。私は思いました。もし、私が今大人で看護師の仕事を実際にしていたら、人を助ける事が出来たのだろうか。考えただけで涙が溢れてしまった。強くなろうと決心した。もう泣かないと。

 そして何日か経ち携帯電話のワンセグでニュースを見ていたら衝撃的な事がありました。それは地震で大津波が起き、家の屋根に避難したが助けが来ず、そのまま寒さで凍死してしまった人と、瓦礫で生き埋めになってしまった人が沢山いるという事。隣の県の宮城県では津波によって死体が3百人を超える位流されているという事。

 私は言葉が出なかった。絶句した。それと同時に生きている事自体が奇跡なんだと生きている事に感謝しました。そして私は決意しました。少しでも多くの笑顔と心を守れる看護師になりたいと。そして地元、福島県で働きたいと。

 これからは私達の時代。弱音等吐かずに死ぬ気で頑張ろうと。人生何があるか分からないけれど、ある歌のように上を向いて歩こうと私は思いました。そして私は人一倍心が強い看護師になり、地元福島県を、守っていきたい。これは夢ではない。絶対に叶えたい目標として心に誓います。


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