福島県立双葉高等学校 1年

竹 原  健太郎
 

「 夢 」
 
 あの日、「普通」ということがどれほど尊いものかということを、身を持って痛感させられた。

 平成23年3月11日、この日、私は中学校の卒業式だった。朝起きて学校へ行き、卒業式を行って先生方や生徒のみんなに見送られた。最高の一日になるはずだった。午後からは母方の祖父母の家に行ったり、夕食は家族みんなでどこかへ食べに行く予定だった。だが、午後2時46分、東日本大震災が発生した。この地震は、私が昼寝をしていた時に発生した。父の「健太郎、起きろ。」という叫び声で両目を見開いた。そして、即座に立ち上がった。とてつもなく大きな「ゴロゴロゴロ…」という音がしていた。この音を聞いてから今まで経験したことのない強い揺れが私を襲った。「ダメだ。外に出ろ!」父が言った。私は父の言うがままに外へ裸足のまま出て、なるべく家から離れようとした。その時、祖父母の家の窓から祖母の姿が目に入った。地震に恐れ、悲鳴をあげていた。私はすぐさま中へ入っていき、祖母を屋内から出そうと思い行動を起こした。しかし、祖母は腰が抜けていて立てる状態ではなかった。そのかわりに近くの棚を押さえたのだが、棚の上の物が全て落ちてしまった。それから父がまた「健太郎!外に出ろ!」と言いながら祖母を助けに来た。私はその言葉の通りに外へ出ようと思った。だが、ここで生まれて初めてあるものを見た。地割れだ。足が止まった。この光景を目にするまでは、無意識に行動していたのだが、これを見て、目が覚めたのと同時に、事の重大さを思い知った。あれから3か月たった今でも鮮明に覚えている、外へ出て、しばらくたつと地震はおさまった。その後家族みんなで妹の小学校へ避難した。小学校でテレビを見ていると、津波と火災の映像が放映されていた。また、校内放送では、「指定避難所は、北小と中学校です」という放送があった。その放送を聞き、人々はすぐさま移動を始めた。私達家族は中学校へと向かった。

 翌朝、放送で福島第一原発から放射能が漏れ出した可能性があるとして、半径10キロ圏内の住民に避難指示が出されたと発表された。午前6時頃のことだった。私達は家族全員で自宅に戻り、インスタント食品やお菓子、毛布などを1台の車に詰め込み、町外への避難を開始した。こんな形で故郷へ別れを告げることになると思ったことは、15年間の人生の中で一度もなかった。

 その日から、私は故郷へ戻っていない。連日、岩手や宮城などでは復興作業が進んでいると報道されている。時間が動いていることがはっきりとわかる。しかし、私の故郷がある警戒区域内では、3月11日から時間が止まったままだ。復興の兆しなど地震から3か月たった今も見えやしない。

 私は今、人生で最も過酷な時期にいるのだと思う。しかし、私は幸せだともつくづく思う。なぜなら今、生きているからだ。そして、家族の誰ひとりと亡くなっておらず、なおかつ学校で勉強することができているからだ。この東日本大震災で、家族や友人などを亡くしてしまった上で、これからを生きていかなくてはならない人、そして、不幸にして亡くなられてしまった人々からすれば自分はどれほど幸せなのだろう。何倍もの幸せを手にしているのだと思う。

 また、こうも考える。この状況でも自分から何かをしなければならないと。だから、私は将来、この福島県で、地元の人のためになる仕事に就きたいと思っている。この大震災を経験して、初めて心からそう思った。大人が頑張っている時、私は何もできなかった。自分は無力だと改めて思い知らされた。地震が起きてから様々な人々に私は助けられた。今度は、私が人々を助ける番だと強く思う。そうなる日まで、必ず地元に戻り、どんな困難も乗り越え、努力し、この夢を実現させる。そう決めたんだ。


[閉じる]