宮城県農業高等学校 3年

佐 藤  禎 俊
 

「ピンチをチャンスに、 
 そして日本一のバラを」

 
 3月11日、東日本大震災が発生しました。我が家もめちゃくちゃになり、電気も水道も使用できなくなりましたが幸い家族は全員無事でした。

 ラジオで入ってくるのは津波の悲惨な状況と余震の情報でした。その日の夜、宮農にいた人たちは、3階に避難し全員無事だというニュースを聞きほっとしました。

 我が家は「耕伸」という会社で農業経営を行っています。バラ栽培が中心ですが多大な被害を受けました。電気・水道が使えなくなったのでハウス内のカーテンも閉められず、暖房も出来ず、養液栽培用の肥料や水も与えることが出来ませんでした。父が『これ以上、水をやらないと株からダメになる』と言って地震から3日後、水が半分ほどなくなってしまった水槽から水を汲んで肥料をつくり、出勤できる人たちみんなで灌水しました。

 これで何とかなると安心した矢先、3月18日の朝、ハウス内の温度がマイナス3度になりました。1800坪のバラが全て凍ってしまったのです。

 もう少しで咲きそうなバラも小さい芽も、皆枯れたようになり、花も蕾も茶色に変色していました。3月は高値をつけるので、この時期に出荷をあわせるために、冬の間暖房をかけ、丹精込めて育てたバラです。父は悔しそうに『もう少し早く電気が来てこの寒さが来なければ何とかなったのに』と話していました。この状態だと6月まで出荷出来ないだろうということでした。

 東京の市場からは「待っていますから頑張ってください。」と温かい言葉をもらいました。

 父は私たちに『なってしまったのは仕方ねー。これからのことを考えないと』といい、社員全員に出勤してもらう連絡をし、ようやくバラのハウスは動き始めました。

 ハウスの地中には、肥料や地下暖房用のパイプが数多く埋めてあります。それが至るところで折れていて、掘っては直し、水が吹いたら直し、その繰り返しを何日も手伝いました。ハウスには3万6千本のバラがポットに植えてあるので、株の負担を和らげるためにホースで肥料と水を一つ一つかけました。凍ったバラは、切って新しい芽が出るのを待ちます。大変キツイ仕事でしたが、これをしたのと、しないのでは全く違うそうです。

 柔道で鍛えている腕が終わる頃には棒のようになりました。父がいつも口にしている『市場にも花屋さんにも、そして消費者にも良いバラだと言ってもらえるものを作っていかないとダメなんだ』、『東京で1番の高値をつければ日本一と同じだし、全国で何本かの指に入る生産者になれる。』簡単そうで大変なことだと感じました。

 震災以来バラは1本も出荷しておらず、ついに農業新聞の市況から宮城の文字が消えてしまいました。

 1か月半後みんなで手をかけて頑張って育ててきたバラは、予想以上の気温の上昇に伴い少しずつ出荷できるようになりました。東京への出荷も5月の連休明けから再開できました。

 会社では、仙台・福島・東京の3か所の市場に出荷しています。しかし原発の影響や東京の計画停電もふまえて、父は初めて関西の市場に出荷をすることを決めました。我が家のバラは、北海道の市場にも転送されています。関西の市場は九州にも行くそうです。ついに我が家のバラは、北海道から九州までの人たちに買ってもらえることになります。関西でも宮城のバラを高く評価してもらえるように今、必死に頑張っています。

 『手をかければ必ず良いものが作れる』、『何でもいいではダメ』。父のロ癖です。

 バラは同じ作業を繰り返し行うことも多く、その日の天候や温度、湿度での細かい気配りも必要です。私には、まだまだ分からないことが、沢山あります。将来は進学し知識や技術を深め、父の後を継ごうと考えています。父が一から始めたバラを受け継ぎ、現在のハウスを3000坪にまで増設し品種も増やし、少量多品種の市場にも対応したいと考えています。「品質の良い」「皆に笑顔になってもらえる」そして「日本一」のバラを作り全国に届けます。


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