鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校 1年

木 田  夕 菜
 

『伝える』ことは、『生きる』こと
 
 「それは、前もってきちんと調べておくことね」。

 やっと和らいできた雰囲気は、その一言でまた一瞬にしてピンと張り詰めた空気に戻ったのだ。

 放送部の私たちは、ラジオ番組の学校紹介に出演するために放送局に来ている。初めて訪ねた放送局のスタジオで、パーソナリティを務めるUさんは、緊張でガチガチにこわばった表情の私たちをその澄んだよく通る声とこぼれんばかりの笑顔で迎えてくれた。たくさんのスタッフと幾何学的に並ぶ放送機器のスイッチとインジケーターに囲まれて萎縮した私たちの心を察したのか、Uさんは少しトーンの高い、それでいて耳障りのよいゆったりとした声で私たちに局内の施設について説明を始めた。時折、ユーモアを交えて話すその声は、まるで心地よいビートを刻む旋律のように響き、いつの間にか私たちは笑顔になっていた。

 そしていよいよ番組の収録を始めようとした時だった。私たちは番組で紹介する予定だった曲の作曲者の名前の読み方がわからないことに気付いた。読み方に困って友達同士、相談しはじめた私たちを見て、Uさんが一言、静かに言ったのだ。

 「それは、前もってきちんと調べておくことね。『伝える』という仕事は、『多分』とか『おそらく』では絶対にだめ。思い込みで電波にのせてはいけない。必ず一つずつ自分で確かめるの。曖昧な情報ならば放送しない。それがこの仕事に携わる人間の心構えなのよ」。

 それは、それまでの私たちの気持ちを落ち着かせるためのトーンとは明らかに異なり、少し低くそしてゆっくりと諭すようなテナーサックスのような響きだった。自分たちの行為の軽薄さに気付き、省みる私たちの心を汲み取ったのか、Uさんはまた、元のハイトーンボイスに戻り、そして少し視線を窓の外に向けながら語り始めた。

 「私は、白血病だったの」。

 Uさんは、発症してからみるみるうちに肺活量が下がっていったのだという。声だけでリスナーに伝えるアナウンサーにとって肺活量は生命線である。息遣いひとつで情景の機微を伝えなくてはならないからだ。しかしUさんの心に宿る「伝える」という仕事への思いは萎えることはなかった。治療を続けながら、上半身のトレーニングを続けたという。それはすべて元のように声を出すためなのだ。そして、彼女はこの「伝える」仕事の現場に生還したのだ。

 話し終えたUさんは、また屈託のない笑みをたたえながら、私たちを優しく見つめ、「さあ、収録を始めましょうね。」とマイクの位置をなおしながら、椅子に座りなおした。

 「生きる力」をくれるものは何だろうか。それはおそらく人生において永遠の課題なのかもしれない。ただ、私は今、ここにその永遠の課題の答えの一つを見つけた気がした。「生きる」ということは、日々、自分が責任ある仕事を行うこと。そして「生きる」ことの意味をもし見失いそうになった時こそ、これまでの自分の為してきたことを確認し、そしてこれから為すべきことを考えること。それが「命」という灯を燃やし続けることなのだ。Uさんは「伝える」という仕事に責任と誇りをもち、自分の命を懸けて、目の前の困難から眼を背けずに正面から向き合った。彼女にとって「伝える」仕事と「生きる」ことは、等号で結ばれている。

 収録が終わって外に出ると、もう真っ暗だった。最後まで手を振って見送ってくれたUさんの笑顔が、私にはその夜空にきらめくどの星よりも瞬いて見えた。


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