鹿児島県立鹿屋農業高等学校 2年

川 畑  万 紀
 

命を第一に考える食料生産を目指して
 
 「できることなら最後まで育ててあげたかった。これからも立派な牛に育ってほしい。」そんな私たち家族の思いと願い。私たち家族が牛飼いをやめてからおよそ5年の月日が流れた。

 私の家は肉用牛を飼育する専業農家だった。多いときには繁殖牛と肥育牛を合わせて170頭もの牛を飼っていた。私は父と母が2人で働く姿を見て育った。特に父が朝早くから夜遅くまで仕事をしているのを見て、「私もいつかは、父のように立派な牛飼いになりたい。」そう思うようになった。そんな父が亡くなったのは小学6年生の春だった。母は父と作り上げた「遺産」を守ろうと頑張ったが、飼料代の高騰や子牛の低価格化が重なって経営が難しくなり、全ての牛と牛舎を知り合いの農家に委託することが決まったのだ。今まで私たちのために命を犠牲にしてくれた牛たちへの感謝の思い、そして、残った牛たちに対して最後まで育ててあげられなかった無念と申し訳ない気持ちで一杯だった。私は今まであのとき手放した牛たちのことを忘れたことはない。ずっと心に残っている。そこで、知り合いのおじさんに今の気持ちを話すと「春休みに実習においで」と、おっしゃってくださった。5年ぶりに目にした私たち家族の牛舎。その頃まだ生まれたばかりだった子牛が立派な繁殖牛として活躍していると聞き、嬉しくなった。従業員さんに教わりながら様々な作業をした。

 志布志町の品評会に「かおる」という牛を出品し、見事に一席をとることもできた。今度は「かおる」が親牛となり子牛を産んでくれるのだろう、そう思うと嬉しくなると同時に優秀な牛を育てあげた父の偉大さを改めて感じた。

 「牛は愛玩動物ではない。あくまで産業動物であるから犬やネコのように感情を入れすぎてはいけない。もし病気やけがで助からないと分かったならば、まだ生きている内に肉として出荷しなければならないこともある。でも、私たちはできる限りの牛を助けたい。」このようにおっしゃっていた獣医さんにお会いしたことがある。私の家では奇形で生まれた牛や病気で手のかかる牛でもできる限りのところまで助けようとし、安楽死させることはほとんどなかった。しかし、今回の実習で産業動物として牛を育て収入を重んじた経営を行っている農家がほとんだと知った。もちろん、牛は産業動物であるから収支を考えた経営を行っていかなければならない。しかし、「どんな状態でも生まれたからには最後まで生かしてあげたい。」「できるところまでやってみよう。」産業動物である前に一つの生命として扱う、それが父の考え方だった。

 毎年全国で800頭以上の牛が安楽死させられている。このような現実や、父の畜産経営を考えると、「どんな牛でも出荷まで飼育できるような肉用牛の生産を目指したい。」「牛の命を第一に考え実践できる牛に関わる仕事をしたい。」という気持ちが芽生えた。私は牛についての生態やよりよい牛が育つような飼育方法を勉強したいと思い、鹿屋農業高校で学んでいる。

 将来、牛についての知識や技術を身に付け農家の方とともに健康な牛を育て、安心して食べることのできる牛肉の生産を目指していきたい。そして中でも絶対に忘れることのできない口蹄疫。たくさんの家畜の命が消え、多くの人々が苦しまなければならなかったあの悲劇をこれから絶対に繰り返してはいけない。口蹄疫等の家畜伝染病でもう二度と家畜の命を奪わないためにも、私はたくさんの知識を身につけて、父のように家畜の命の大切さを第一に考えながら、鹿児島県の食肉生産に貢献できる人間になっていきたい。


[閉じる]