武蔵野東高等専修学校 3年

坂 東  明 樹
 

仕 事
 
 私が仕事と聞いて真っ先に考えたのは母の仕事についてである。日本は女性が子育てしながら働くのは難しい国であり、私の母も苦労した1人だ。

 私は母が大学院生のときに生まれた。母は、大学の博士課程在学中で、周囲の人からは「なんでこんなときに」と言われたそうだ。保育園の入所審査に漏れ、私を背負いながら論文を書いた。私は1歳で無認可保育園、3歳で公立の保育園に入所できたが、就職氷河期と少子化による大学への求人減少が重なり、乳幼児を抱えた母の就職は難しかった。

 私が4歳のとき、母はタイでの就職を決意した。バンコクの大学に勤める母のタイ人の友人に、日本人専任講師をしないかと誘われたのだった。彼女が母に「日本とちがって、タイでは子育てしながら働ける環境が整っていますよ。」と言っていたが、本当にその通りだったという。母の講義はすべて午前中に設けられた。朝、幼稚園バスに乗る私を見送って出勤し、私が幼稚園から帰るともう母は家に戻っていた。幼稚園で祝日と出勤日が重なると、子連れで出勤した。当日、大学にはあたりまえのように教員や職員の子どもが何人も来ていた。私は教室の後ろでブロック遊びをしながら授業が終わるのを待ち、休み時間には学生さんたちに遊んでもらった。

 タイには2年間滞在し、私が小学2年生にあがる時に、日本に帰国した。しかし、それからが大変だった。私は小学校で不登校になり、適応障害になった。母は、私の通える学校を探しまわり、シュタイナー教育の小さな自主学校に編入したものの、私はすぐパニックを起こしてしまった。母は、学校に毎日一緒に通い、待機して、私の様子次第では一緒に早帰りしなくてはならなかった。1年経つと、私はずいぶん落ち着いてクラスの友達と一緒に学べるようになった。母は、やっと週1回の大学の非常勤講師の仕事を始めた。

 私が4年生のときに祖母(母の母)が亡くなり、祖父(母の父)が癌になり、1年闘病して亡くなった。そして、私は小学校6年生の終わりに、友人と野球をしていて、前歯8本を折る大怪我をしてしまった。その後、重度の副鼻腔炎や、腰椎分離、網膜剥離など、怪我や病気が続き、母は仕事を増やすどころではなかった。中2の9月に私は腰椎分離で学校に通えなくなった。母は、私の見舞いに来る友人たちに勉強を教える寺子屋をするようになった。母は、大学生時代に予備校や塾、家庭教師のアルバイトをしていたので、勉強を教えるのが上手で、しかも楽しそうだった。

 しかし、私とマンツーマンで教える時は、別人のように機嫌が悪くなる。どの家庭でも同じようだが、親が自分の子に勉強を教えるのは感情のコントロールが難しいようだ。私は母が私の友人たちに教えるときに便乗して数学や英語を習った。腰椎分離のリハビリで中学生の後半の1年半も学校に通えなかったのだが、母の寺子屋のおかげで淋しくもなく、不安も感じずにすみ、無事、進学できた。

 今でも、母は、週2日、大学の非常勤講師をする他に、余裕があるかぎり、小学生から大学受験生までの様々な生徒に勉強を教えている。母は、「やる気がある子には無料で教える、奨学金の現物支給なんだよ」と言って、彼らからお金をとらない。そして、とても楽しそうである。

 私がもし生まれなかったら、もし、手のかからない子どもだったら、母はやりたかった仕事をもっとできたかも知れない、という話を母としたことがある。母は、「でも今ほど楽しくなかったかも知れないよ」と言っていた。母は、どんなときも、自分のベストを尽くして仕事をしてきたのだろう。

 将来、私がもし、希望する仕事に就けなかったり、他の事情で仕事を思い通りに続けられなくなったりしても、私は私で、その中でベストを尽くし、やりがいと楽しさを見つけていきたいと思う。


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