宮城県農業高等学校 2年

村 上  善 春
 

地元の憩いを取り戻す
 
 「いってきます!」

 毎日当たり前のように港町の桟橋に向かい、野々島に登校するために揺れる船に乗り込む。船は渡辺採種場が仙台白菜の種取りに使った馬放島を通り過ぎ、野々島に向かう。私は登校の度、馬放島を眺めて安らぎ、野々島にある菜の花畑の明るい黄色に元気をもらっていた。

 中学1年生の3月、2つ上の先輩の卒業式の日、いつも通り桟橋に向かい、野々島からの帰りの船上で、あの地震が起きた。船は激しく揺れたが、なんとか避難した。あの綺麗だった菜の花畑、友達と放課後に集まった公園、大好きな駄菓子屋が…。

 私の目の前には残酷な光景が流れた。

 幸い、学校は高台のため無事で、震災後も登校が出来た。しかし、港町の桟橋も島々の砂浜もたくさんの流木が、私の大好きだった景色を邪魔している。中学生だった私は、その景色を眺めるだけの自分に腹がたった。

 「ぐずぐずしていられない。すぐにでも何かしたい!でも何をすれば…」気持ちばかり前に出て行動には移せなかった。

 中学3年生になり、教頭先生に「おまえに頼みたいことがあるんだ。」と呼び出された。はじめは訳も分からず、木をひたすら削る作業だった。湿って重くなった木をひたすら削り続けた。汗だくになりながら、その重い木を運んでくる教頭先生に何に使う物なのか聞いてみると、「これは島の海岸に流れ着いた廃材だよ。これを使ってベンチを作るんだ。」と教えてくれた。

 そのとき、教頭先生の島の復興を目指す熱い気持ちを感じとり、自ら積極的に流木集めから手伝うようになった。海岸の流木が片付くと、島の観光物産でもあり、毎年学校行事でも行っていたアサリ採りも、海岸沿いで海女さんがとってきてくれる牡礪むきも復活する!そして、自分が作ったベンチをたくさん置いてあげて、島の人はもちろん観光客も腰を下ろしてゆっくり島を楽しんでもらうんだ!震災の影響で島には活気がなくなったが、島のために今自分に出来ることはこれだ!

 それからは住民もこの流木拾いやベンチ作りに参加し、島だけではなく私の港町も少しずつではあるが片付き始めた。

 「まだだ!まだ自分に出来ることがあるはずだ!」

 私はゴミ袋を持って登校し、行き帰りで拾える限りのゴミや瓦礫を拾い始めた。また、私の中学校では、生徒全員参加の演劇発表会がある。私の代の題目は「仙台白菜事始め」。これは渡辺採種場の創設者である渡辺顕二さんが仙台白菜の種取りのために、数え切れない失敗を繰り返しながらも、あきらめずに研究を続け、馬放島で多種との交雑を避け仙台白菜の種を完成させたと言う話である。私はこの演劇の主役を務めさせてもらうことになり、学校のみんなにも、島のみんなにも、「私は絶対にあきらめない!」と言うメッセージを伝えようと、演じきった。「誰かのために、地元のために何かをしたい!」この強い気持ちを持ち続け、その志を持った人たちが集まると、こんなにも思いが伝わり、行動に移せることを学んだ。このことは自分の後輩にも伝えたい。登校時のゴミ拾いなど、今自分たちが島のために出来ることがある、それをやっていこうという気持ちが引き継がれている。

 私はこの『地元をもっと活気づけたい。』と言う気持ちを決して失わない。そして今、宮城県農業高等学校で農業について学び、東京農業大学厚木キャンパス農学部畜産学科進学を目指し日々の勉学はもちろん、実習科目も畜産部門を選択している。出来る限り家畜と向き合う時を作り、先生方と丁寧な世話に努めている。

 一度地元を離れても、広い世界で様々な人と出会いたい。また進学先で同じ志を持った人と、いつか地元に戻り独自のブランド豚の飼育を行うファームを立ち上げ、島オリジナルのベーコン作りといった、6次産業化の夢を実現させる。

 今日も私は、今自分に出来ることを探し、一歩ずつ前進する。手作りのベンチに座って澄んだ潮風をまた気持ちよく浴びるために。


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