富山県立富山中部高等学校 2年

辻 井  優里奈
 

「命」を「生きる」
 
 私は、幼い頃から近所でも有名な「おじいちゃん子」で、何をするにも祖父と一緒だった。そしてその晩も、「おやすみ、おじいちゃん。」といつものように言葉を交わした。

 しかし翌朝、前日までのごく当たり前の生活が、当たり前ではなくなった。祖父が倒れたのだ。病名は脳梗塞で、文字通り脳の中心部の血管が詰まり、重篤な状態だった。突然の出来事で動揺する家族に、主治医が度々病室を訪れ、優しい言葉をかけてくれた。「大丈夫。助かりますよ。」その言葉に、私たち家族はどれほど励まされたことだろう。

 幸い、祖父は奇跡的に一命を取り留め、倒れた翌日からはベッドの上でリハビリができるようになった。祖父は言語障害に加えて、黒目も動かなくなったので、目の焦点が合わず、歩行が困難になった。初めてオムツをつけ、自分の孫ほどの看護師に介助された時の祖父の気持ちを思うと、胸が痛む。

 祖父は昔、大学の体育教官をしていたそうだ。若い頃は器械体操に明け暮れ、退官後は一転して、孫たちに水泳や鉄棒を教えるパワフルなおじいちゃんとなった。病気知らずで、体力が自慢のはずだった。落ち込み、塞ぎ込んだ祖父。そんな祖父に主治医は明るく声をかけた。「鉄棒の大回転はできないけれど、必ず一人で歩けるようになります。お孫さんが待っていますよ。」と。

 主治医の言葉は、硬かった祖父の表情をほころばせた。回復への道のりは決して平坦ではなかった。しかし、人目を気にせず、言葉にならない言葉で一生懸命に会話し、時間がかかっても、何でも一人でやろうとした。医師の言葉が、祖父に新たな「命」を吹きこんだのだ。そしてそれは、希望があれば、「生きる」ことができるということであった。

 生死の境をさまよっている患者に、医師は今ある「命」を救うために、共に戦っている。時には、不幸にして死に終わる辛い戦いになることもあるだろう。しかし、いかなる時も冷静に最善を尽くす。今そこにある「命」を救うために。

 ここまでが医師の仕事だと、以前、私はそう思っていた。ところがそうではなかった。そこはゴールでもあり、スタートでもあるのだ。医師の仕事とは、生物的な意味での命を救うだけではなく、その「命」に、人間らしく最大限に生きる手助けをしていくことなのだ。

 医療技術の進歩により、以前は救えなかった命も、救うことができるようになってきた。そして、それからどう「生きる」かが考えられる時代になりつつある。終末医療や尊厳死という言葉がマスコミを賑わし、様々な分野で議論されるようになってきた。

 救われた「命」をどう生きるか。それは単に延命と捉えるのではなく、いかに希望を持って生きることができるかということではないだろうか。そして、そのための勇気を与え、実現可能となるよう医療技術を駆使しつつ、人間としての思いやりで患者を支援していくことが、医師に課せられた最大の仕事であると私は思う。

 祖父は今、不自由な体ながらも今の状態を受け入れ、趣味のパソコン教室へ通い、自分史を発行しながら、救われた「命」を精一杯に生きている。私には、そんな祖父の姿が輝いて見える。祖父の病気という悲しい出来事の代償ではあったが、「命」とは何か、そして「命」のある限り「生きる」とはどういうことなのかを学ぶことができた。

 私は将来、医療の道に進みたいと考えている。それは容易なことではないだろう。しかし、今この瞬間にも、病と闘いながら「命」を救われ、「生きる」ことを諦めず頑張っている多くの人の存在を感じている。私は医師となり、その人たちの手を握り、「生きる」ことの希望を伝えて「命」をつないであげたい。そしてどんなに困難でも、夢の実現に向かっていきたいと強く願っている。


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