山梨県立上野原高等学校 3年

山 中  茉 実
 

恩返しができる看護師に
 
 私は、将来、看護師になって多くの患者さんの支えになりたいと思っている。具体的に看護師を目指したのは、小学校高学年の頃だ。1歳と10歳のときに大きな手術を受け、看護師にお世話になったことが、この夢を抱くにいたった大きな理由である。私のこれまでの人生は、おそらく普通の人よりも病院にいた時間が長い。このため、看護師との思い出は、本当に数え切れない。

 私は、生まれつき病気を抱えていた。自分自身では覚えていないが、生まれて数ヶ月の頃、手術をしないとランドセルを背負えるか分からないと医師に告げられたという。そのため、私は1歳で1回目の手術を経験することとなった。手術は無事成功したものの、その後も何度か体調を崩して入退院を繰り返す日々だった。

 まだ幼かったが、看護師にお世話になったことは、おぼろげながら記憶に残っている。点滴や管についているテープにキャラクターの絵を描いてくれたり、母を含め家族の誰かが付き添えないときには、おもちゃで一緒に遊んでくれたり、細やかな優しさがとても嬉しかった。わずか1歳での入院生活は、どれだけ寂しかったことだろうと、自身のことながら思う。だからこそ、看護師がどれだけ支えになっていたのか、今、考えればとてもよく分かる。

 小学校に入学してからは、しばらく楽しい学校生活が送れていたが、小学校4年生のとき、厳しい現実を突きつけられた。主治医の先生から、移植手術を受けないと、今後回復することはないと言われたのだ。すぐに紹介された栃木県の大学病院を受診した。山梨県の自宅から栃木県までは少なくとも片道3時間ほどかかる。それを月に1回のペースで通い抜いた。そして、誕生日でもある7月19日に、私は、母から肝臓を移植してもらったのである。1日かけて行われた大手術は無事成功したが、その後の大変さが強烈な印象として残る。

 様々な管に囲まれ、身動きがとれない。傷跡が痛む。苦しみの連続だった。物心がついて色々なことが分かるようになってきた中で、幼い頃よりも数倍苦しい記憶が残っている。しかし、その中でやはり頭に浮かぶのは、看護師の優しい笑顔だ。長い入院であったため、勉強もしなければならなかったが、よく看護師が分からないところを親切に教えてくれた。看護師の仕事がどのようなものか興味をもち始めた私が、後をついて回って困らせたこともあった。どのような時も看護師が常に私のことを心配し、声を掛けてくれた。

 中学生になると、病院に行く度に「大人になったね」と私の成長を喜んでくれるのがとても嬉しかった。小さな子達の面倒をみて一緒に遊んであげると、「お姉ちゃんになったね」と目を細めて私の顔をみてくれる看護師の存在は、私にとって病院にいる家族のようだった。進路の相談にも乗ってくれ、高校生になった私は、今、看護師を志している。

 私を救ってくれた看護師に近づけるのか、今、不安を抱えることもある。しかし、私にしかできない看護があるはずだという自負も芽生えている。生と死がせめぎあう過酷な現場でも、優しさや慈しみの心が救いになることを、私は知っている。共感や支え合いが笑顔を生み出してくれることを、私は知っている。苦しい入院生活の中で、看護師から、与えて頂いたものは数知れない。それを今度は、私が返していく番だ。この気持ちは揺るがない。

 「看護師」という名が背負う大きな責任と、社会的役割の重大さは、今さら言うまでもない。今の自分と理想とする自分に大きな隔たりがあることも理解している。しかしながら、私は、あきらめない。看護師として、多くの方の救いになりたい。恩返しがしたい。私は看護師になるという夢を絶対に叶える。


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