群馬県立聾学校高等部 3年

山 田  真裕子
 

私だからこそ
 
 「福祉」この言葉を聞いて、頭の中に浮かぶのはどんな光景だろうか。

 健常者や若者が、障害者や高齢者などの社会的立場の弱い人々を支援する。こんなイメージが多いのではないだろうか。

 私は、聴覚障害者だ。耳が聞こえないことに加えて、うまく言葉が話せない。そんな私の将来の夢、それはスクールソーシャルワーカーになることだ。

 私は、小学生の頃、通常の学校に通っていた。そこでは特別支援学級に在籍していた。聴覚に障害があるのは私だけだったが、知的障害や肢体不自由の友達がいた。中には、いじめや家庭の事情で、不登校になってしまった人も遊びに来ていた。そんな彼らが通常学級に授業参加すると、決まって疎まれた。特に重い知的障害を抱えた下級生は、本人がよく分からないことをいいことに、いじめに近い行為が繰り返されていた。それでも、その子は笑っていた。ただし、いつもの屈託のない笑顔とはどこか違った笑顔で。

 一方、私自身も聞こえる人達と一緒に過ごすのは、苦痛でしかなかった。先生や友達の話している内容が理解できず、誤解や擦れ違いばかりが生まれた。休み時間は、友達が楽しそうに話しているのを恨めしくさえ思った。当時の私にとって、通常学級に参加し健聴の人たちと交流するのは、疎外感を感じるだけで、楽しいと思ったことはなかった。それでも、残された僅かな聴力を頼りに通常の学校へ通い続けた。

 しかし、中学生になってとうとう限界を超えてしまった。聴力が格段に落ち、静かな場所でさえ、まともに会話が成り立たない状態だった。そこで、聾学校への転入学を決意した。障害者の学校へ行かなくてはならない劣等感や憤りは感じた。その一方で、「私のためにこそ聾学校があるのだ」という強い思いが心のどこかにあった。聾学校に行きたいという気持ちと、通常の学校にいたいという2つの相反する気持ちが複雑に絡み合った。

 通常の学校では、先生には配慮してもらえたが、他の児童からすれば、私の存在などからかいの対象でしかなかった。「耳に何つけているの」「どうして変な話し方なの」「どうして無視するの」それは、まだ小学生だった子どもの素直な言葉だったのかもしれない。「どうして私だけ耳が聞こえないの」と母に怒りをぶつけてしまったこともあった。どうしたらよいか分からず悩んでいた。

 そんな悩みも聾学校へ転校した途端に、解消した。聾学校では、聞こえないのが当たり前で、授業も理解でき、友達との会話も楽しめた。今まで抱えていたストレスが嘘のように感じた。そして思った。以前の私みたいな悩みを持つ子どもたちを救いたい。障害を背負いながらも普通校に通っている子どもたちに救いの手を差しのべたい。

 「私、スクールソーシャルワーカーになりたい」と母に相談したが、返ってきた言葉は思いがけないものだった。

 「耳の聞こえないあなたに務まるの?」

 そんなこと考えてもみなかった。確かに相談するのにコミュニケーションは不可欠だ。悩み事を聞くのに、「大きな声ではっきりと話して」などと言えるわけがない。そんなことさえ考えずに、ただ助けたいというだけの甘い考えだった。本当にスクールソーシャルワーカーになれるのか、自問自答を繰り返した。

 そんな中で、一つの答えを出した。「障害があるからできない」のではない。「障害があるからこそできる」ということだ。普通校で様々な困難にぶつかってきた私だからこそ分かり合えることがあるはずだ。障害があるからこそ、社会的弱者の気持ちが理解できるはずだ。

 私の将来の夢、それはスクールソーシャルワーカーになることだ。自分自身の経験を活かし、ひとりでも多くの困っている子どもたちを助ける。悩みをしっかりと聞き、心に寄り添って一緒に解決していく。これが私の夢であり仕事だ。


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