沖縄県立南部農林高等学校 2年

砂 川  天 海
 

震災が教えてくれたもの
 
 扉を開けると、鉄格子の隙間から「なでて!なでて!」とちぎれんばかりに尻尾を振りながら私に体をすり寄せてくる「あずき」。あずきは私の通う南部農林高校で産まれた生後2ヶ月の黒毛和種の子牛です。私は初めて見る牛の出産に心を躍らせながらも、無事に生まれてくるか不安がありました。しかし、経験豊富な母牛だったこともあり無事「あずき」が誕生しました。産まれてすぐに細い足で懸命に体を支え、母牛のもとに向かうあずきとやさしく歩み寄り、立つのを手助けする母牛の姿をみて、「命」の誕生に感銘を受けました。それから2ヶ月が経ち、母牛から離乳したあずきの日頃の世話を任され、毎朝ミルクを与えながら体調管理をするのが私の日課になっています。

 福島で生まれ育った私が、遠く離れた沖縄で高校生活を送ることになったのは、4年前の東日本大震災がきっかけです。あの日、小学6年生だった私は体育の授業中でした。授業を終え体育館から出ようとすると突然足下が歪み、次の瞬間には立っていられないほど大きな揺れが襲いました。天井のライトが落下する「バリーン!」というすさまじい音と、友人が泣き叫ぶ声、それを落ち着かせる先生の大きな声が今でも耳に残っています。家に着いてからも数時間後に、断水に見舞われ1週間程水が使えなくなり、水がある場所までタンクに水をくみに行かなければなりませんでした。また、食料不足にも陥り、家に備蓄してあった食べ物を家族で分け合って食べました。しかし、追い打ちを掛けるかのように起きたのが原発の爆発事故です。その日を境に目に見えない放射能の恐怖に怯えながら過ごす日々が始まりました。

 毎日のように放射能による様々な問題がニュースで報道され、私たち家族は幼い弟のことを考え、父の故郷である沖縄に引っ越すことになりました。沖縄に引っ越した当初は常に福島の現状を気にかけ、友人と連絡を取り合っていましたが、私は沖縄という違う環境に慣れるのに必死で、時が経つとともに友人と連絡を取らなくなっていきました。

 沖縄の生活にも慣れた頃、高校の授業で福島の制限区域内の畜産の現状を学ぶ機会がありました。映像には、牛舎に繋がれたまま餓死した牛や弱々しい体で必死に走りより餌を求める牛、狭い部屋で重なり合うようにして白骨化した豚たちの亡骸がそこにはありました。私たちの為に生まれてきた「命」が見るも無惨な姿になった映像を目の当たりにして、原発は地球上の多くの命に今後も多大な影響を及ぼし続けるのだと痛感させられました。

 制限区域内で飼育されていた家畜達は、餌も水も口にすることができないまま餓死してしまうか、または、内部被曝が原因で殺処分となり、役割を全うすることなく死んでしまう運命なのです。震災で犠牲になった多くの命は、人間だけではなく食料や労働力として役割を担うために人間が飼い慣らした家畜の命も含まれているのです。もし、あずきが制限区域内の家畜と同じような姿になったらと考えると、今私の目の前で走り回るあずきを、震災で亡くなった多くの「命」の分も愛情をこめて一生懸命育てたいと心から感じました。

 4年前のあの日、震災や原発の爆発事故はたくさんの命を奪っていきました。しかし私は、震災がきっかけで、沖縄の南部農林高校に入学して初めての牛の出産であずきと出会い、「命」の尊さを学びました。震災後の福島の畜産の現状を知ることで「命の役割を全うさせることが、生産者が家畜に対してできる最大の感謝」だと知ることができました。たくさんの犠牲の代わりに、たくさんの感謝の心を教えてくれた4年前のあの日を私は忘れない。


[閉じる]