愛媛大学附属高等学校 3年

焉@山  愛 理
 

一人じゃない
 
 「えりちゃん、ななちゃん。くるりん見えとるかね。左の窓よ。」

 祖母が、私と妹に一生懸命話かける。くるりんとは、私が幼稚園児だったころ、ちょうど造られた観覧車のことで、駅前のデパートの屋上に建設された。くるりんが建設された当時、松山市内の熱気はすさまじく、大人も子どもも口をそろえて「くるりん」「くるりん」と呼んでいた。祖母も私もその1人で、祖母が私を祖母の家から自宅へ車で送ってくれるときは、必ず少し遠回りをして土手を通り、夜のビルの谷間に見えるライトアップされたくるりんを拝ませてくれた。

 両親は共働きで、私が園児だったころよく祖母に預けられていた。しかし、私は祖母との生活を全く不満に思っていなかった。祖母は私にたくさんのことを教えてくれるからだ。庭の花の名前、マドレーヌの焼き方、ギンナンの臭さ、仏壇の前での作法。自宅では味わえなかった新しいモノとの遭遇を、もとより好奇心の旺盛な私が喜ばないはずがなかった。祖母は、私にとって、新しいモノを与え続けてくれる恩人だったのだ。

 その恩人が79歳を迎えた時、私は高校1年生になっていた。祖母のやさしさは相変わらずだが、祖母の口から「膝が痛くてかなわない。」という声が漏れる回数が増えていた。

 その矢先の秋のことである。祖母の大腸に2センチのポリープが見つかったと母は私に知らせた。母の小声は妙に説得力があり、「入院」、「手術」の言葉はずっしりと重かった。祖母に入院歴はなく、一番戸惑っていたのは母であったように思われた。私はいてもたってもいられなくなって、その週末に祖母の病室を訪れた。

 祖母は意外にも元気で、私の突然の訪問を笑顔で喜んでくれた。祖母は手術のために食事が制限されていて、私が「おなかはすいていないか」と聞くと、「食事を摂らないのは慣れたから苦痛ではないよ」と答えてくれた。祖母のいた病室はカーテンで区切られており、窮屈で湿っとしていた。

 祖母のポリープは良性だったのか、退院後の再検査には無事引っかかることはなく、私たち家族は安堵した。祖母も徐々に今までのようにはつらつと体を動かすようになった。しかし、私はそれから何度も、「祖母のポリープが悪性で、発見がおくれていたなら」と考えるようになった。実際に、日本にはがんを抱えている高齢者が大勢いて、毎日たくさんの人があの窮屈な病室で命を落としている。最期の瞬間を孤独に迎える人も少なくはないだろう。高齢化が進む中、高齢者の終末期医療は緊急の解決が求められる問題である。

 私は2年生になり、高校生ビジネスプラングランプリに参加するために、多世代共生型の福祉施設について調べた。県内に1件だけその条件を満たす福祉施設を見つけた。その施設こそが「梅本の里・小梅」だった。小梅では、施設内に保育所があり、現在は職員の子どもたちが主に預けられている。施設内には、それぞれ子どもだけが入っていいエリアと高齢者だけが入っていいエリア、両者が共有するエリアに分けられている。おじいさんが膝に小さな女の子をちょこんと座らせていたのが印象的だった。

 私は今、多世代が共生するホスピスをつくりたいと思っている。今までの日本を支えてくれていた高齢者の最期の時間をたくさんの人に囲まれた自然な状態で迎えてほしいからだ。親戚だけでなく、地域の関係までも希薄になってしまった現代にこそ、このホスピスが必要だと思うのだ。

 命は無限ではない。一人ひとりが命の灯を燃やすろうそくなのだ。このろうそくが風に消されることなく燃え尽きるためには、社会全体が風除けにならなくてはならない。私も看護師として、祖母を、社会を守ることができる人間になりたいのだ。


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