早稲田大学高等学院 1年

羽 田  将 哉
 

手話が生み出す栄光の架け橋
 
 『えっ?えっ何?』これが私の聞こえないときの口ぐせだ。

 私は、普段相手とのコミュニケーションに、ほとんど困ることはない軽度難聴者だ。だから、何度も聞きなおすと、相手に聞こえない振りをして馬鹿にしているのか、と思われることがある。本当に聞こえなく困っているのにだ。それが相手になかなか理解してもらえない時があると、とても虚しい気持ちになる。でも、そんなことがあっても、私は人と会話をしたり、人の手助けをしたりすることが大好きである。

 私は少しだけ手話ができる。手話の技術は重要だが、それ以上に聴覚障がい者の心を理解すること、気持ちに寄り添うことを大切にしなければならないと思う。私のように軽度の難聴者には、手話ができる人が少ない。だからこそ、難聴者ではあるが手話もでき、一般の人々とも会話のできる私は、他の人にはない聴覚障がい者の立場にたったよりリアルなボランティア活動ができると思う。

 私は2020年に行われるオリンピックやパラリンピックで、聴覚障がい者が世界中の多くの人々と話せるようにしたい。なぜならコミュニケーションは、場の共有を生むからだ。スポーツの感動は共有する事で生まれる。だからこそ、私が手話通訳ボランティアとして間に入り、聴覚障がい者と聴者の交流を深めることに力をかせるのではないかと考えた。もちろん私が今ここで言わなくても、もう実際にこのようなボランティアは始まっている。例えば、手話通訳や字幕サービスなど情報格差を減らす環境整備を訴え、オリンピックの日本開幕につなげたいと言っているデフリンピックの総監督のような人がいる。しかし、そのような取り組みは、まだまだ、一般の人々にはあまり知れ渡っていない。だから、私が2020年の東京五輪までに、日本の手話言語技術は誇らしいものだということを、世界中の人々に知らせる事も行いたいと思う。

 現在、多くの聴覚障がい者アスリートはパラリンピックではなく、デフリンピックというところで活躍している。しかし、障がい者のオリンピックを細分割する必要があるのか。様々な障がいを持つ人達同士が、コミュニケーションを深めれば良いと思う。でも、おそらく今の世の中では、聞こえる人達と聴覚障がい者との交流をする際の情報手段があまりないから、聴覚障がい者の人々も少し、聞こえる人達のオリンピックを避けているのだと私は思う。実際に様々なスポーツを見てきているが、やはり聴覚障がい者と聞こえる人たちとの試合というものは、あまり見たことがない。聴覚障がい者なら聴覚障がい者同士という風に孤立した空間になってしまっているのが現状だ。

 そんな孤立した空間を改善するために、私が思いついたのが、聴覚障がい者の気持ちを理解している私達のような人々が、聴覚障がい者の手話言語を通訳し、聴者に伝えるというアイデアだ。それで少しは、聴覚障がい者が聴者とのコミュニケーションを避けることなく、スムーズに交流ができるのではないだろうか!コミュニケーションは、一方からの発信を受けることだけでは成り立たない。もっと、もっと、聴覚障がい者が多くの人々に向かって自分の意見を発信したり、聞こえる人との会話のラリーができてこそ、コミュニケーションと言えるのだ。現状では、手話を理解できない人が圧倒的に多い。そのため聴覚障がい者は、受信できるが、発信できない場合が多いと思う。

 だから、音声使用の言語←→手話言語に同時通訳できれば、デフリンピックだけでなく、普通のオリンピックでも聴覚障がい者が世界中の選手とコミュニケーションする場が増えるのではないかと思う。こうして、聞こえる人と聴覚障がい者との交流を深めることは、日本だったら可能だと私は思う。なぜなら、世界の中でも日本は、手話言語が特によく使われていて、発展しているからだ。私は2020年というこの年に向けて、もっと手話言語に対する能力を高めるよう努めたい。そして、東京オリンピックの舞台では、障がいのある人もない人も世界中の人々が言葉の壁を越え、交流できる場を私は創りだしたい。私は手話で、栄光の架け橋を生み出す。


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