桜蔭高等学校 1年

栗 原  杏 珠
 

悪いことってなに?〜法律で日本を守る〜
 
 小さい頃、私にとって善悪とは絶対的なものであった。お手伝いするのは「良い事」、お友達と仲良くするのも「良い事」、忘れ物は「悪い事」、嘘をつくのだってもちろん「悪い事」。忘れ物してないよって嘘をつくのは…多分「悪い事」。だって怒られるもん。

 でもある日、困ったことが起きた。一人の友達に秘密を教えてもらった。二人きりの秘密だった。でも別の友達にそれを教えてほしいと言われてしまったのだ。秘密を勝手に教えるのは「悪い事」、でも教えなかったらその友達が悲しくなっちゃう。そうするとそれも「悪い事」に違いない。どっちにしても「悪い事」の時はどうすればいいの?「良い事」のために「悪い事」をしたら、それは悪い事なの?

 昔分からなかったこの問いに、今でも私ははっきりと答えることはできない。

 私が裁判官という職業を初めて意識したのは、小学6年の社会科の授業だった。歴史をおもしろく教えるのが上手な先生で、教科書に載っていない話をたくさんしてくれた。その中でとりわけ私が興味を持ったのは大津事件の話だ。江戸時代、ロシア皇太子が日本を訪れた時に、日本の武士に斬りつけられ、命こそ助かったものの、外交上の大問題となり得た話だ。当時の最高裁判長の児島惟謙が政府の圧力に逆らい、判事を一人一人説得してまで法律を守ったことで、結果的に日本も世界から高く評価されたという部分に深く感銘を受けた。自分もそのような人間になりたいと強く思ったのを今でも鮮明に覚えている。

 もう一つ裁判の話で印象に残っているものがある。昨年、大学祭に行った際、法学部で議論していた判例、「勘違い騎士道事件」だ。誤想過剰防衛に関する有名な話であるが、この話、中学生の私から見ると誰も悪くないのだ。誰も悪くないように見えるが、亡くなった方からすればそんなことは言っていられないだろう。その模擬裁判を見ながら、幼い頃に考えた善悪についてまた考えた。絶対的に悪い事、良い事は存在しないのかもしれない。いろんな立場の人がいて、多くの人は理由なく悪い事なんてしない。犯罪を犯してしまった人でも、そうしなければいけなかった、あるいは、そうしたいと思ってしまった理由があるのかもしれない。その中で、多くの人が安全に暮らすためのルールが法で、それに基づいて原告も被告も、世の中の秩序も守ることができるのが裁判官なのだろう、と。

 一方、裁判所、特に最高裁判所には、事件の裁判だけでなく、憲法を守る「憲法の番人」としての役割もある。記憶に新しいものとしては一票の格差の問題があるだろう。国会議員が働いている国会では、この問題は自分達の生活に関わるものとなってしまうので、国会だけが審議の場だと、この問題はずっと進展しない可能性があった。昨年、最高裁判所の違憲判決がニュースで報道されたときに、コメンテーターによって司法権の独立が強調されていた。裁判所は立法、行政から独立しているので、いざというときに国をも守り得る唯一の存在だ、というのはそのコメンテーターの言葉だったろうか、もしかしたら私自身が感じたことだったかもしれない。

 こうして私の裁判官への思いが強くなった。父や母の仕事を見て、だとか、病気になった時に助けてくれたお医者さんに憧れて、だとか、そのような模範的でかっこいい理由がある訳ではない。加えて裁判官という職業は、自分でなりたいと思ってなれる訳ではなく、司法試験に受かった上で、司法修習の中で若くして優秀な成績を修めた人に声がかかるとのことである。

 それでも裁判官になりたい。困っている人を助けたいだけじゃない。悪い人は初めから悪い人だった訳じゃないって気づいたから、自分が、法律と自らの良心に基づいて、訴えた側の気持ちも訴えられた側の気持ちも考える裁判官になって、社会の秩序を、日本を守りたい。


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