宮城県多賀城高等学校 2年

平 塚  亜 美
 

あの日からの私
 
 3・11。あの日から5年。同時に、この日は私のお父さんとお母さんの命日となりました。家族みんなでご飯を食べたり、一緒にしていたキャッチボールや料理ができなくなってしまいました。そこから、私がその日まで普通だと思って過ごしていた日常が大きく変わりました。

 震災当時、私はまだ小学5年生で女川町にいました。そして、何が起きたのかが分からないまま必死に高台へと避難しました。

 私の家は、当時通っていた小学校から距離が近かったため避難している途中に自分の家が見えました。しかし、そこで見た光景に私は大きな衝撃を受けました。そこには、今まで見たこともないくらいの黒い水が自分の家をどんどんのみ込んでいくのです。私はショックを隠しきれませんでした。

 高台への避難が終わると、周りの同級生や下級生、先輩たちが次々とお父さんやお母さんと再会し涙を流す親子もいました。そんな再会を果たしている中、体育館の方へ避難しました。両親とまだ会えていなかった私と3つ歳下の弟はそれぞれ友達の家族と一夜を過ごしました。夜中も余震が頻繁に起こり、とても安心して眠れる状況ではありませんでした。

 次の日、私は友達と一緒に外の様子を見に行きました。地面がひび割れていて、所々で土砂崩れが起きていました。私の家は、跡形もなくなっていて、家があった場所には大きな船がありました。

 その後まもなくして、私はやっと身内と再会することができました。でも、そこにお父さんとお母さんの姿はありません。身内と再会することができて嬉しいはずなのに、なぜか私は胸のあたりがモヤモヤしていました。そして、私は父方の祖父母と別の避難所に移りました。その時の女川町の景色やにおいは今でも鮮明に覚えています。津波でぐちゃぐちゃになった車、泥まみれになっているぬいぐるみや人形。そこに私の知っている女川町の景色はどこにも見つけることができませんでした。

 数日後、母方の祖父母と再会を果たしました。それを機に、私は東松島市で暮らすことになります。

 お父さんとお母さんの死が分かったのは東松島市に避難して数日後でした。私たちはまだ幼かったということもあり、その時は会えませんでした。目の前で涙を流しながらその事実を伝える祖母の姿。私は頭が真白になり、悲しいという感情をあまり感じませんでした。夜になると自然と涙がこみ上げてきました。一人声を殺して泣く夜もありました。

 私は、女川第二小学校から野蒜小学校に転校し鳴瀬第二中学校へ進学しました。鳴瀬第二中学校は鳴瀬第一中学校と統廃合され鳴瀬未来中学校となりました。それまで、私は友達に自分の両親の事を話しませんでした。もし自分の両親の事を話したら気まずくなってしまうと思ったからです。そして、両親のことについて話すのがとても怖かったのです。

 中学3年生の時「命の授業」を受けました。そこで私はほんの少しですが変わることができました。クラスのみんなで震災を取り上げて命について話し合いました。私はそこで初めてみんなの前で自分の両親のことについて話しました。怖かったです。でも、クラスの人たちは受け入れてくれました。最初、怖かった気持ちが少しずつなくなっていくのを感じました。

 3・11。ここで両親の死というものを体験しました。私は、お父さんとお母さんが大好きです。大好きだからこそ2人の事を忘れたくありません。あれから5年という月日は流れましたが、私は5年という節目だから亡くなった人に手を合わせるということはしたくありません。震災から5年はただの通過点、これからもまだまだ続いていくと思っています。私は、お父さんとお母さんの分まで強く生きようと思います。こう思わせてくれた日を私は決して忘れません。


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