東京都立町田総合高等学校 2年

島 田  茉 奈
 

松島の牡蠣
 
 「今年は大漁だったんだ。」

 去年の暮れ、松島にいる大叔父から沢山の牡蠣が届いた。いつも送ってくれるものよりはるかに大振りで、身が詰まっているものばかり。震災以降、初めて見た大きさの牡蠣だった。

 私の大叔父は、松島で観光船の船長をしている。2011年3月11日、東日本大震災で被災した1人だ。震災直後、大叔父はいつものように観光客を乗せて松島湾を遊覧していた。観光客に260余りの小島を説明していた時、地震が起こった。津波が来る、と直感した大叔父は急いで港まで船を戻し、観光客全員を避難させた。観光客を全員降ろしたのを確認すると、1人でまた船に乗り込み海へと船を出した。「死ぬかもしれない。」そう思いつつも、松島の象徴である観光船を守り抜くことしか頭になかったそうだ。

 3日後、1人で津波に向かった大叔父は、全身打撲はしたものの、なんとか津波に飲み込まれることもなく、生還した。

 震災から約1年後、私は大叔父のいる松島へ向かった。松島は幸い津波の被害は大きくなく、死者は1人であった。しかし、瓦礫や泥が小島に蓄積され、観光地としての被害はとても大きいものだった。私が行った時も、ところどころに被害の現状が垣間見えた。1年経っても今まで通りになったと言えるものではなかったのである。

 大叔父が命をかけて守った観光船「仁王丸」に乗って、大叔父からその後の話を聞いた。津波の直接的なダメージはなかったものの、小島や岩が崩れたり、牡蠣の養殖場が流されたりと様々だ。大叔父は若い人たちと一緒に泥や瓦礫の撤去に尽力したが、当時はまだまだ残っていた。一番、大叔父が悲しんでいたのは牡蠣だ。松島は広島と並んで、牡蠣の名産地で、色々な料理を味わうことができる。1年のうちに何とか養殖場を復活させることはできたが、震災前と比べると漁獲量は明らかに減少していた。少ないながらも、大叔父は、牡蠣をふるまってくれた。これがまた、とても甘くてプリプリとした弾力があり美味しいのだ。今でもその味を思い出すと、うっとりしてしまう。

 それ以来、大叔父とは、連絡を取っていて、毎年牡蠣を送ってくれる。一時期、あまり獲れないということで、ニュースにも取り上げられたが、牡蠣の味は変わらず美味しい。去年の暮れにお礼の電話をかけたとき、大叔父はこんなことを言っていた。

 「あれからもうすぐ5年が経つが、まだまだ復興は進んでいない。でも、こうして牡蠣が大きく成長してくれるほど、海は綺麗になった。お客さんだって戻りつつある。俺はそれだけで元気がでるんだよ。だから、まだまだ頑張るよ。東北はこんなもんじゃねぇんだって見せつけるのさ!」

 震災直後の大叔父はどこか悲しげで元気がなさそうに見えた。しかし、復興のために前線で活躍する大叔父はとても輝いて見えた。なにより「人間の底力」というものを見た気がする。

 震災後、松島の観光船を守った船長として大叔父は各メディアにひっぱりダコだった。私が行ったときと同じことを、何度も何度も、色々なところに呼びかけていた。

 「松島に来てください。松島はこんなに元気です。ぜひ松島に来て、元気なことを全国に伝えてください。」

 松島が震災を乗りこえて頑張っているのは、牡蠣を見れば一目瞭然だ。私は毎年、松島の牡蠣を食べるのがとても楽しみだ。


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