熊本県立玉名高等学校 1年

吉 井  健 人
 

「ことば」でつなぐ人と人
 
 日本での外国人の数は増加している。おそらく、東京五輪でその動きはさらに加速することだろう。そこで大切になってくるのは、やはり外国人に対しての「おもてなし」である。私達が何気なく過ごしているこの日本という国も外国人にとっては、未知の場所であり、また、一生でそう何度も訪れる場所ではないかもしれない。だからこそ、日本に良いイメージを持ってもらえるような、「おもてなし」が重要なのである。

 そのように考えている中、こんな出来事があった。友達と私で市街地へ遊びに行ったときのことである。観光客と思われる1人の男性が道を尋ねようとしていた。しかし、周りの人はその男性と関わろうとしない。もっといえば、意図的にその男性を避けているようにすら感じられた。私はこのような状況に対し、怒りを感じた。しかし、だからといって自分が英語で道案内できる自信はなかったので、結局私も何もできず、大きな無力感を覚えていた。しかし、その時ある少年がその男性に話しかけた。少年は、おそらく私と同じ年ぐらいであった。私は、少年はさぞかし流暢に英語を話すのだろうと思った。しかし、彼の英語はお世辞にも流暢とはいえない、拙いものだった。だが、男性は少年と話した後、笑顔で歩いていった。おそらく、道案内に成功したのであろう。私はそれが意外に思えて仕方がなかった。なぜ、拙い英語であったのに、道案内という日本語でも容易でないことをやってのけたのだろう。

 しかし、その疑問はある本を読んだとき、氷解した。その本によると、物事を伝えるときは言語で伝えていると思われているが、身ぶり手ぶりやアイコンタクトなども重要であるということだった。さらに、伝えようとする気持ちが強ければ強くなるほど、これらの動きは大きくなるということだった。思い返してみれば、少年も大きく体を動かして何かを伝えていた。つまり、彼は人一倍伝えようとする気持ちが強かったのである。そもそも英語という言語だけを考えれば、日本の人々のほとんどは中学・高校で学んでいるはずである。だから、あとは伝える気持ちさえあれば、外国人に何かを伝えたりすることはできるはずである。また、日本の人々は外国人であるという理由だけで、その人を避けているようにも感じる。日本は島国であり、今までは外国人が訪れることもあまり無かったことも影響しているかもしれない。しかし、グローバル化が進む昨今においてそれは不合理なことである。外国人とも積極的に関わることができるようにすることもこれからの日本人の義務であると私は思った。

 そして、ある日私はテレビで1965年の東京五輪についての番組を見た。そこで語られていたのは、多数の学生ボランティアの活躍である。もちろん、その中には外国人と会話し、必要な情報を提供するボランティアの人もいた。私はそれを見て、私も4年後の東京五輪でそのようなボランティア活動をしたいと強く思った。言葉を通じて、日本の「おもてなし」を伝えたいと考えた。そのために、これから英語の勉強はもちろん、海外の文化や日本の文化についても学び、ボランティアになるための力をつけていきたいと思う。また、もし外国人と話す機会があるなら、積極的に会話をし、「伝える力」を高めていきたいと思う。

 もう二度とあの男性に話しかけられなかったときのような過ちをくり返したくないと心から思う。東京五輪のときは、日本の「おもてなし」の提供者となり、何もできない「無力感」ではなく、外国人に対し、正確なサポートをすることで、「満足感」や「充実感」を得られるようにしたい。


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