群馬県立利根実業高等学校 2年

鈴 木  和 幸
 

日本一の木工品で地域のプライドを取り戻す
 
 長い沈黙を破って、棋士の手が碁盤に伸びる。テレビにアップで映し出されたその先には、いつも私の家で作った碁石入れである碁笥(ごけ)があります。この光景を見るたびに私の心は高まるのです。

 私は囲碁の名人戦を見るのが大好きです。碁笥の製造所は日本で3カ所しかありません。だから、自分の家で作られたものを見分けるのは容易なのです。

 私の家は、群馬県最北部の都市である沼田市で木工所を経営し、現在は碁笥に特化した経営を行っています。

 利根沼田地域には柿の木が多く自生しています。樹齢100年から数100年の柿の木には、数千本に一本の割合で材に墨を流した様な紋様が入る「黒柿」が発生します。この黒柿は最高級木材として評価されており、原木一本が100万円を超えるものさえあるといいます。

 私の家はこの黒柿を使った碁笥製作に取り組みました。幸いなことに、囲碁の本場である中国で高度経済成長が始まり、高級碁笥の需要が高まりました。また、全ての石が平等であり打ち方が複雑なため、チェスとは違った価値観を持ったゲームとして、ヨーロッパで囲碁ブームが起こったのです。さらに、黒柿の碁笥は芸術品として評価され、高値で取引されるという現象が生まれました。

 私の家は祖父と叔父が経営を行っていますが、祖父は高齢のために第一線から半分身を引いています。叔父はあと10年位は碁笥の製作ができます。一人前の碁笥職人になるには10年間の修行が必要だと言われていますので、私が高校卒業後に後継者となれば、今ならば祖父からも叔父からも技術を継承することができます。

 祖父は60年前に15歳で木工所に就職しました。高度経済成長のまっただ中でした。何をやっても上手くいく、そんな時代でした。そして、5年間の修行の後に独立しました。しかし、時代の流れの中で木工品はプラスチック製品に置き換わっていきました。日本中の木工所が急減していきました。私の家は主に木製の食器を作っていたのでしたが受注は激減し、その日の食料にも困る毎日が続きました。

 腕には自信があったので、経済成長を見越して高級品を作ることにしました。問屋には買ってもらえないような状況でしたので、東京へ行商に行きました。一日中歩き回って、土下座をする毎日でしたが、全く売れない日も多くありました。しかし、私の家の周囲は農家ばかりなので、もらい物で何とか生き延びることができたのだそうです。だから、地域に恩返しをしなければいけないんだと、祖父が私に対していった言葉は今でも忘れることができません。

 地域に自生する黒柿で碁笥を使ったところ、思いもよらない高値で売れました。以来、私の家は黒柿の碁笥製作を中心とした経営を行うようになりました。

 私の家では製品を問屋に卸しています。卸値は販売価格の半分程度です。これを消費者に直接販売すれば私の家の経営は大幅に改善されるはずです。しかし、それ以上に私が気になるのは、私の家の木工所名も、そして、沼田市の記載もないことです。かつて利根沼田地域は日本有数の木工品の産地でした。私は家の経営を進化させると共に、木工品の産地としての利根沼田の名前をかつてのように日本中に知らしめたいのです。

 利根沼田地域は活性化を失っていると言わざるを得ない状況です。人口は急減し、経済は停滞し、人々は自信をなくしてしまいました。どんよりとした重い空気の中で、住民はもがき苦しんでいます。

 そんな中で、私は地域の人たちや多くの若者に、この地域の住民としてのプライドをよみがえらせたいのです。利根沼田は良い所なんだ、すごいんだ。こういう気持ちを持ってもらえるようにしたいのです。

 私は日本一の碁笥職人になります。そして、日本一の木工品の産地として利根沼田地域の名声を全国にとどろかせたい。これが、地域の人々に支えられながら、やっとの思いで生きてきた祖父の経営を引き継ぐ、私の目指す碁笥職人の姿なのです。


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