東京都立中央ろう学校高等部 3年

焉@橋  望 夢
 

私の夢―社会福祉士になること―
 
 6年前のあの日、私は宮城県立聴覚支援学校の5年生だった。学校で国語の授業を受けている時に起きた。突然の大きな縦揺れ、横揺れ。机にしっかりと掴まっていたのに、体と机が同時に飛び跳ねてしまうくらいの揺れだった。すぐに停電し、私は初めて地震に対する恐怖感を持った。揺れが収まるかと思いきや、また大きく揺れた。グラウンドに避難し、寒かったため、保健室や寄宿舎から布団を借りたり温かい飲み物をもらったりした。怖くて震えが止まらなくて、呼吸も普通のようにできず苦しかった。楽しくしようと友達と指遊びをしたが、心のどこかでまだおびえている自分がいて、全然楽しくなかった。

 雪が降り始め、寄宿舎に避難した。ストーブを3つ置いて皆で丸くなって体を温めた。夕飯は非常食の乾パンを食べた。卒業生が学校に来て「大丈夫、絶対迎えに来る。それまで頑張れ」と励ましてくれた。先生がラジオの放送を手話で通訳してくれたが、信じられない話ばかりだった。私が住んでいた多賀城市は、津波の被害でまだ水が引いていないという話だった。家族のことが心配で、寂しくて怖くて涙が出そうになって「お母さんに会いたい」という思いがますます強くなった。

 布団一つに2人で寝た。翌日、新聞を見たら仙台港のコンビナートが燃えている写真、津波で海の町になった写真。あまりにも衝撃的だった。朝食はお菓子とお茶だった。

 学校で待機する生徒が減り、小学生は私だけになった。心細くなった私に高校生の先輩が声をかけてくれた。「一緒にトランプしよう」と私を元気にしてくれた優しい先輩だった。

 お昼前の時間、騒ぎ声がして振り向くと、父と祖父、叔父がいた。しかしそこには母と祖母の姿がない。頭が真っ白になった。すぐ家の周りの避難所を探し歩いた。知らない人から飲み物をたくさん頂いた。頑張ろうと思えた。

 どこを探しても見つからなかった。父も祖父も叔父も、何も言えず黙りこんだ。もう一度同じ所を探すことに決めた。車の中から人の顔を眺めていたら、祖母の姿があった。

 「お母さんは?」「向こうにいる」

 私はすぐ車を降り、走って向かった。母の姿を見つけ、思わず抱きついた。そしてその日から、避難所で生活することになった。

 私達家族は全員耳が聞こえない。放送で何か言われても分からないので、手話通訳者が一日ずっと傍にいてくれた。ご飯の時間も健常者と同じように行動することができた。手話のできる人が身近にいて本当に安心だった。

 当時は人から助けられてばかりだったが、今度は私が支える人になりたいと思った。

 中学2年の秋、家庭の事情で東京に引越すことになった。父とは離れ離れで、一か月に2回位しか会うことができない。けれど今は充実している。将来の夢は、社会福祉士だ。障害者がスムーズに社会参加できる社会にしたい。多くの人の喜ぶ顔を見たい。

 今年の3月、春休みを利用して高齢者施設で一週間実習をした。トイレ介護をされるのが嫌で、ヘルパーの髪を引っ張ったりひっかいたりする人がいた。「お尻をふかないと病気になってしまうよ」というヘルパーの一言で嫌がることなく従った。あれほど暴れていたのにその一言で収まるのはすごいと感じた。

 大学は2校見に行った。どちらも福祉系で障害者に対する理解がとてもある大学だ。オープンキャンパスでは模擬講義も受けた。大学側で情報保障を準備して下さったので、健常者と同じ情報量を得ることができた。

 社会福祉士としてろう者である私にできることは、悩んでいるろうの人の相談にのることだ。筆談のコミュニケーションが苦手でなかなか本音が言えない方でも、私が手話で話すことで本当の気持ちを話してくれるだろう。相手の気持ちを考える力を高め、震災の時にお世話になった手話通訳者のように、傍らにいるだけで安心してもらえるような社会福祉士になりたい。


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