熊本県立玉名高等学校 1年

荒 木  典 佳
 

地方紙の存在
 
 世間で「新聞離れ」が言われて久しい。実際、私の周りの友達には新聞を購読していない人が多くおり、とても驚いた記憶がある。

 そんな世の中で、私はあの日をきっかけに徐々に新聞記者になりたいという思いが芽生えた。それは、日本中、いや世界中を巻きこんだ未曾有の大地震、東日本大震災である。私は当時小学3年生だった。その頃も、いち早く人々の心を奪ったのはテレビであったように思う。私は地震から一夜明けた3月12日、新聞の一面に、九州新幹線開通の記事とともに載っていた東日本大震災の記事に衝撃を受けた。そして、カレンダーの裏だったのか、大きな白紙にその新聞記事を切り抜き、色ペンで新たに見出しを作り、簡単な感想を書いて、それを「のりか新聞」と題した。まさに本能に動かされた行動、というべきで、家族はその新聞をたいそうほめてくれた。その次の日もまた同じようなものを作り、私はしばらく手製の新聞作りが趣味となった。

 そして、小学6年生の文集に「年収一億円の新聞記者になる」という作文を書き、小生意気ではあるが大きな夢を持ったのだった。

 しかし、中学に入学し、「活字離れ」等について聞いていくうちに、新聞を書くことに何の意味があるのだろうか、果たして社会の役に立っているのだろうか、と思うようになってきた。

 実際、新聞の購読数は右肩下がりで、若者はおろか高齢者、中高年までもが新聞を読まなくなってきている。

 しかし、新聞が好きで新聞は必要不可欠であると思っている人がいるのも事実で、そうでない人にとっても、新聞には単にニュースを伝えるだけでなく、もっと大切な役割があるように思う。

 こう考えるようになったきっかけは、昨年4月14、16日の熊本地震だ。経験したことのない大きな揺れと度重なる余震に不安を覚え、もっと情報を、と多くの人がテレビやインターネットに集中した。しかし、インターネットには悪質なデマが流れ、テレビでもそれを鵜呑みにしてデマが報道される始末だった。そんな中、新聞はテレビが見られない避難所で、大きな原動力となった。同じように、東日本大震災でも避難所に届いた新聞を、人々は宝物のように大切にしていたそうだ。また、震災から一年経った今、特集として仮設住宅で暮らす方々へのインタビュー記事が掲載され、同じように悩みを抱えている人の心の寄り所となっている。

 もし熊本地震下や、復興中の今、地域の実情を伝える地方紙がなかったのなら、どうなっただろうか。こう考えると、地方紙に載ることは、世界で報道される大ニュースよりも重要で、時には心の寄り所となる存在なのかもしれない。

 東日本大震災においても地方紙は活躍したそうだ。自ら被災しながらも、地元の人々のために途切れなく報道を続けた「河北新報」などは、震災経験後、他の媒体より信頼度が高くなったそうだ。

 私が新聞記者になろうと思ったのは東日本大震災だった。そして、なろうと再び思ったのは熊本地震だった。それは、私自身も、災害を通して新聞の恩恵を知らず知らずのうちに享受したからなのかもしれない。新聞は緊急時に特にパワーを発揮するのだろう。

 このように、新聞がなぜ必要なのか考えていくうちに、私ははっきりと新聞の必要な理由が分かってきた。それと同時に私は、地方紙の新聞記者になりたいと思うようになった。今回は、災害だけに特化して考えたが、地方紙は他にもインターネットでは報道できない大切なことを伝えていけると思う。私は、大好きな新聞を後世に伝えられるよう、地方紙にしかできないことで社会の役に立ちたい。


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