沖縄県立名護高等学校 2年

後 藤  祐 杏
 

父の背中が教えてくれた「働く意味」
 
 「人は何のために働いているのだろうか」

 6年前の私なら、「家族を養うため、あるいは好きなことをするためだけに働いているんでしょう」と答えていたかもしれない。

 私が小学生の頃、父は祖父の会社を引き継ぎ、休む暇なく日曜日も働いていた。新しい事業を始め、会社は大きくなっていった。仕事も軌道にのり、私達家族は、何不自由なく幸せに暮らしていた。

 しかし、その何気ない日常の幸せは一瞬にして失われた。2011年3月11日、私はあの日を決して忘れない。東日本大震災のあの日、私は宮城県に住んでいた。

 幸い、私の家は流されず、家族全員無事だった。震災から数日たった時、私達家族は海の付近に建っていた父の会社に行ってみた。地面は足の踏み場もなく、多くの家、車が積み重なっていた。津波の恐ろしさに心が震えた。父の会社は消えてしまったのだ。

 会社の従業員たちは全員無事だった。しかし会社が全滅したために働く場所を失ってしまった。子どもながらに、会社を失った父は大丈夫だろうか、と心配した。

 そんな私の心配をよそに、父は決して弱音を吐かなかった。自宅にパソコン、電話を設置、会社の再建に乗り出した。何もかも失ったのに、何かに突き動かされるようにパソコンに向かう父の背中は、生きる力にみなぎっていた。震災から1ヶ月後、父だけが宮城に残り、私達家族は、母の実家である沖縄に行くことになった。

 宮城を離れる日、泣きながら私は父に聞いた。「どうしてお父さんと一緒に暮らせないの」と。父は私の頭を撫でながら、優しくきっぱりと言った。「会社の人達を見捨てるわけにはいかない。また一緒に暮らせるようにお父さん頑張るから」。あれから6年、小学4年生だった私は高校2年生となり、周りの人達に支えられながら穏やかな日々を送っている。しかし、父とはまだ離れ離れの生活が続いている。

 一昨年の夏、私は震災後初めて故郷宮城に帰った。父の会社にあいさつに行った時、思いもかけない多くの笑顔に出会った。震災前より環境は悪化しているはずなのに、皆生き生きと働いていた。そこには、現実から逃げずに、家族の幸せを取り戻し、故郷宮城の復興に確実に前を向いている人達がいた。そして、会社の人たちの先頭に立って奮闘する父の背中があった。

 私は確信した。「働くってこういうことなんだ」と。人は守るべきものがある時、こんなにも素晴らしい力を発揮することが出来るのだということを知った。お金のためだけでなく、家族のために、自分のために、故郷のために、そして人とつながるために、人は働いている。そこにはまぎれもなく「生きがい」という言葉が存在する。

 「若い世代は仕事をすぐに辞めてしまう」「将来、やりたいことがみつからない」。私達の世代はこのような問題であふれている。当の本人達もどのように解決したら良いか困惑しているのだろう。

 私はそういう人達に伝えたい。生きがいを見つけてほしい。どんな職業や立場にあっても、自分のためになること、社会のためになることはきっとあるはずだ。それが、これからの未来を作っていく私達に必要なものである。

 まずは自分で行動しなくては始まらない。どんなに小さなことでもいい。私も、新しい未来に向かって一歩ずつ前に進んでいく。父の背中が教えてくれたように。


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