沖縄県立名護高等学校 1年

西 銘  健 人
 

今・3年後・そして未来へ
 
 伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ――。体操ニッポンが輝きを取り戻した2004年、アテネ五輪。そして昨年、ブラジルのリオデジャネイロで体操ニッポンが再び輝きました。3年後、この夢の舞台は東京です。―お・も・て・な・し―という言葉から始まった2020年東京五輪。3年後の僕は19歳。おそらく、大学に進学しているでしょう。そんな3年後の僕は何をしているのだろう。

 僕が生まれる何年も前の1964年に、東京五輪が開かれました。様々な所で、「あの感動を再び」というような言葉を聞きます。あの感動と言われても、生まれてもいない僕には全くわかりません。しかし、1964年よりも、今の方が様々な技術が発達していて、より身近にスポーツというものはあります。ですから、1964年の東京五輪よりも、3年後の東京五輪の方がより感動できる大会になるのではないでしょうか。様々な名場面が生まれる五輪。3年後の東京五輪は、もう始まっています。

 僕には、趣味がたくさんあります。そのほとんどがスポーツに関わることです。テレビはバラエティー番組だけでなく、様々なスポーツの試合も見ます。実際に、プロ野球、プロバスケットボールや駅伝などの全国大会にも足を運びます。もちろん、スポーツをすることも趣味です。休みの日は、部活以外のスポーツも楽しみます。僕の人生に、スポーツはなくてはならないものなのです。

 僕達がスポーツを楽しめるのは、必ず誰かの支えがあります。そのことを感じた大会があります。それは、今年の1月に京都で行われた、全国都道府県対抗女子駅伝です。この大会は、中学生から一般までの各都道府県の代表で競う大会です。全国のトップランナーが集う、とても大きな大会です。もちろん中には、3年後の東京五輪に出場する選手もいることでしょう。大会当日は今シーズン最大の大寒波が日本列島に訪れた日でした。京都の人もうなるほどの寒さでした。大会当日は、天気予報通りの雪でした。それも積もる程の大雪でした。沖縄では絶対に見ることのできない景色でした。大会中止も予想されました。選手が走る道にはたくさんの雪で一杯でした。僕はまず、スタート・ゴール地点である競技場に行きました。すると、大会スタッフやボランティアの現地の高校生達が、一生懸命に除雪作業を行っていました。これはスタート時刻に間に合わないだろうという雪の中、ひたすら除雪作業をしていました。その結果、雪の影響を受けながらも無事大会は成功しました。スタッフやボランティアの方々の一生懸命な姿は今でも覚えています。この大会からどんな小さなことでも、一生懸命することで、感動という大きなものは生み出されると学びました。

 3年後の東京五輪。日本国民だけでなく、世界中の人々に感動を与えるためには、スタッフの力がとても重要だと思います。僕には、選手として出場できる才能はありません。でも、僕には感動を与える手助けはできます。あの時のスタッフみたいな格好良い人に僕もなりたい。2020東京五輪に何らかの形で関わりたいです。そのために僕は関東地方の大学に進学します。今の僕は、勉強して合格することが絶対です。夢である体育教師になるためにも。

 東京五輪でスポーツのすばらしさを学び、これからの時代の子供達に学んだことを伝えてあげるということが僕の役割だと思います。2020東京五輪の架け橋を支え、感動をつくってみせましょう。待ってろ2020東京五輪!


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