宮城県多賀城高等学校 3年

長 谷  ま り ん
 

食がつないだ私の未来
 
 あの震災が私の進む道を決めた。

 当時私は小学4年生。家は仙台市の沿岸部にあり、例にもれずすべてのライフラインが絶たれていた。小学校体育館での避難所生活は、暗くて寒くて落ち着かないものだったと記憶している。その夜の避難者3000人。横になるスペースがあるかないかぐらいの中で雑魚寝。私は知らないおばさんと同じ枕で一緒に寝た程だ。2人に1枚支給された毛布では体育館の床の冷たさに勝てない。お湯は赤ちゃん、妊婦、お年寄りが優先なので私達に回ってくることはなく、食事もピンポン玉サイズの冷えたアルファ米で「あるだけまだまし」と納得するしかなかった。

 それゆえ片付けに戻った家の庭で七輪を使って炊いた土鍋ご飯は熱々で格別だった。おいしく炊けたので隣家のおばあちゃんに持っていくとお礼に白菜をもらい、冷蔵庫の残り物と合わせて鍋に。残った炭で焼き芋も。温かい食事が不安や悲しみでふさいだ私の心を元気づけてくれた。

 また、再開された小学校では「簡易給食」が出されたが、内容はパン1個と牛乳。たまにジャムが付くこともあったが、牛乳でパンを流し込む感じだった。特に、牛乳アレルギーの子はパンだけでいっそう味気ない。それが1か月余り続いた後、「完全給食」が復活した時は皆笑顔で、温かい給食っておいしいなと心から思ったものだ。

 一方で震災翌週には南三陸町から九死に一生を得た祖父母が家に避難してきた。非常持出し袋はもちろん、家までも丸々津波に流された祖父は心労で持病の高血圧が進んでいたようで、心も体も弱り切っていたように見えた。後に祖父は心臓を手術し、慢性腎臓病と闘うことになる。現在、食事の塩分の他カリウム、たんぱく質(リン)など注意しなければいけないことがたくさん増えた。

 震災の時、避難所での食事は「ある」だけでありがたく、内容や量を選べるものではなかった。健康な私達でさえ、冷たいもの、栄養バランスの悪いもの、塩分の高すぎるものが続けば体調を崩していくだろう。持病をかかえた人、アレルギーのある人ならなおさら命に関わる事態になりかねない。

 これらの経験から、温かく栄養バランスのとれた食事は人を元気づけ、健康にも欠かせない大切な役割を持っているのではないかと私は考えた。そこで目指す職業を管理栄養士と決めた。

 その夢を叶えるために私は今、多賀城高校災害科学科で学んでいる。災害下にあっても人々の健康を支えられるような仕事がしたい。それには災害についてもっと深く学び、あらゆる条件の下でも柔軟に対応し、安全に命をつなぐ術を学ばなければいけない。そんな思いを実現に導く学びのチャンスに恵まれた高校だ。

 例えば、熊本に派遣され募金を届けた際には、給食を一緒に食べ、はしゃぐ小学生の姿に安心した。私達が完全給食に戻った時を思い出し、温かな食事の重要性を再認識した。授業ではビニール袋を使った炊飯、煮物作りの実践、避難所で気を配るべき栄養バランス、アレルギー対応等の他、循環備蓄の重要性も学んだ。さらに「工場野菜」の特性を課題研究のテーマに定め災害時の活用の可能性を探った。

 毎日が学びであり、命を守る備えである。あの頃の私は小学生だったけれど、今ではできることも増えた。これから世界のどこかで起こるであろう災害に備え、子どもからお年寄りまで食の面からサポートし、一人でも多くの人の力になりたい。


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