学習院女子高等科 2年

鈴 木  友 水
 

あの震災があった人生
 
 中高一貫校で、中高合同の部活に参加していると、ふとした瞬間に年の差を感じることがある。中一から高二までの生徒が在籍するその部活動で、一番年の差を実感するのは3・11の時いくつだったか、という話をした時だった。入部した当初の高校二年の先輩はその時中学一年で、今年入部してきた中学一年は幼稚園の年中だったと言う。当時小学校三年生だった私には、どちらもあまり考えられない年齢だった。そして私は、その時いくつだったかという話を聞く度に思うのだ。もし私がその年齢だったとしたら、あの日の捉え方はまた違ったものになっていたのだろうか、と。

 小学三年生というのは、なかなか不思議な学年だと思う。考え方や価値観がしっかりしてくる中学生でも、高学年でもない。もちろん、記憶がぼんやりしているような幼稚園児や低学年とも違う。だからこそ、その時期の記憶は「忘れる」や「忘れない」という話ではないのだと思う。

 幼い頃の記憶は失われがちで、大きくなってからの記憶は他の何かと混ざっていつの間にか記憶の奥底へと沈められていく。ならば、そのどちらにも含まれ難い時期の記憶はどうなるのか。ちょうど記憶に刻まれて、人生の基盤に一種の価値観として深く根差すのではないだろうか。ちょうど、私の人生において、あの震災がそうであるように。

 3・11の捉え方は様々だ。人生にふと降りかかって来た大震災、覚えてもいない過去や生まれる前に起きた大震災、そして、記憶がしっかりしてから初めての、大きな震災。私は最後のタイプで、だからこそ東京の地に生まれ育ちながらもずっとあの震災が記憶に残っている。大切な人を失ったわけではないけれど、忘れられるものでもなかった。

 人が誰に恨まれたわけでもなく、病気だったわけでもなく、ただ亡くなってしまうことがあるのだということを子供のうちに知ると、きっと命に向き合う姿勢が変わってくる。より慎重になるし、臆病にもなる。当然、同じ年に生まれた子供全員がそうだとは思わないし、私だけそういう考え方をしているのかもしれないとも思う。けれど少なくとも私にとっては、あの震災が一種の転機だった。

 「私は3・11を忘れない」そのフレーズを校内に張られたポスターで見かけた時、私は何故だかこの作文を書く必要があると思った。東北地方から離れた場所に住み、特に不自由も覚えずに育った呑気なただの高校二年生。当たり前のように平穏な日常を享受している平和ボケした存在が、それでもあの震災をしっかりと覚えていると誰かに主張せずにはいられなかったのだ。

 身勝手な話であると思う。私はあの震災を覚えているけれど、何処でどれほどの被害があったのか正確には知らないし、その土地が未だに抱えている問題などにも詳しいわけではない。ただその理不尽を知り、何度も繰り返された臨時ニュースの津波の映像や特番を忘れられないだけ。けれど、私は「覚えている」。「忘れてはいない」のだ。

 死んでしまったらその人の人生は終わりになり、本人にはもう、どうすることもできない。だから私たちは、遺された者たちは、その死に意義を見つけ、丁重に弔うことで「死」を「終わり」にしてしまわないように努力する。個人個人では短い一生に過ぎない人生のリレーを、そうして繋げていくことで歴史を刻み、文化を受け継いできたのだ。

 そんなことを言ってはみるが、私は歴史にも文化にも疎い。でもだからこそわかることもある。歴史は深く、大事なものであるが遠く、しっかり分かっていない者もいる。だからあの震災は歴史にしてはならない。過去の出来事であると同時に、あまりに身近で紙面に載せて遠くに追いやっていいものではないからだ。

 だから忘れずにいよう、身勝手だとしても私の価値観の一部にしてしまおう。そして願いたい、他の人もそうであるということを。


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