長野県松本蟻ヶ崎高等学校 3年

山 下  萌 乃
 

変わらぬ夢
 
 小学生のとき、私の将来の夢は「画家になること」だった。中学生になった頃からこの夢の話をすることはなくなっていたのだが、今回この作文を書くにあたって、数年ぶりに「私は画家になりたい。」と宣言しよう。

 小学校3年生から高校1年生の半ばまで私は近所の絵画教室に通っていた。その教室での経験により、私は「画家になりたい」と思った。

 その教室は山の麓にあり、女性の先生が1人、小・中学生の生徒が10数人と大きい教室ではなかった。しかし先生は私たち生徒に絵を描く楽しさや様々な表現の方法を教えてくれて、大きな紙に自分の世界を表現できる楽しさを学んだ。また、絵を描きながら友達と他愛の無い話ができることや、一生懸命描いた絵を両親が褒めてくれることが嬉しくて週に一度の教室をとても楽しみにしていた。

 先生は優しくユーモアのある人で、子供たちに絵を教えながら自分の制作もしていた。作品は水彩画が主であり、一般的に美しいとされるものを美しく描くといった万人にわかりやすい表現だった。私は先生の描く可愛らしい動物や美しい花々の絵に感動を覚え、私も表現を上達させて、自分の絵でたくさんの人に感動を与えたいと感じた。素晴らしい先生、一緒に絵を描く友達、美しい自然に囲まれて私は純粋に「一生絵を描き続けたい。」と思った。

 こうして小学生のうちは安直に画家になろうと思っていたのだが、中学生頃からこの夢を実現するのは容易なことではないと気付き始めた。

 この頃には当然のように美術大学への進学を決めていたのだが、美大出身の伯父と伯母の話を聞くと絵画科を卒業して就職した友人は思い当たらないという。デザイン科と比べて絵画科では多くの学生が大学院へ進んで自分の制作を続けるらしい。その後絵を描くことだけで生計を立てていくことができるのは、ほんの一握りの才能ある人たちだけだろう。私にはきっとそのような才能はないし、空腹に堪えながら絵が売れるまで努力し続ける根性もない。また、大学を卒業後は独立してある程度安定した収入を得たいという現実的な思いもあった。

 釈然としないまま、高校1年の秋に7年以上通った絵画教室をやめて美大進学のための予備校に通い始めた。予備校は緊張感のある雰囲気で、先生は厳しく先輩たちは私とは比べものにならないほど技術があった。最初は自由だった絵画教室との違いに戸惑いもしたが、通っていくうちに確実に技術が身についているのが感じられた。

 そんな予備校の先生の言葉で強く印象に残っているものがある。厳しい生活を煩慮し画家としての作家活動を諦め、他の仕事に就いても「腹は満たされるが心は満たされない。」という言葉である。

 美大へ進学して絵画を学んだとしても、学芸員の資格を取って美術館などで働いた方がよほど現実的である。絵は趣味でも描けるだろう。しかし何度そう自ら言いきかせても、自分の制作に重きを置いた人生を送りたいという思いは変わらない。作品を通して何か世間に伝えたいものがある訳ではなく、ただ好きなことをして生きていきたいという利己的な夢である。でも「好き」というのは技術や根性にも勝る力であると思う。画家としての活動において、「絵を描くことが好き」以上の強みはない。

 私は自分でお金を稼いだこともなければ社会の厳しさも知らない。いつまで都合の良い夢をみているのかと呆れられるかもしれないが、何も知らないからこそ希望も持てるし不安もある。ただ一つ言えるのは、私の中に絵を描き続けたいという思いが幼い頃から変わらずにあるのだ。少し大人になって様々なことを懸念するようになったが、それらをふまえて尚、私は画家になりたい。


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