宮崎第一高等学校 2年

川 井 田   凜
 

「緩和ケア」にかかわりたい
 
 二年前、私は祖母をがんで亡くした。年末から体調を崩して入院した祖母は、検査でがんが見つかり、父と叔母は医者に呼ばれ、余命半年と告知された。

 「年齢が高いから、手術しても体力がもたない。このままうちの病院で看取ります。」

 地元の個人病院は、重篤な患者は大きな公立病院に送ることが多い。祖母はこの病院をかかりつけ医として深く信頼していた。早く病気を治して退院したいと明るく話す祖母を病室に残し、私たち家族は待合室の隅で、これからの心構えについて話し合った。

 「半年だったら、葬儀は六月くらいかな。」

 それは私たちの暗黙の了解。それまで、できる限り祖母のお見舞いに行こう。たくさん話をして、楽しい思い出もたくさん作って送ってあげたい。お見舞いに行く車の中では深刻な話をしていても、病室に入る前にはお互いの笑顔を確認し、明るい声でドアを開けた。

 何もかも知っていて、でもそれを隠して、笑顔で祖母と接することはとても大変だった。長引く入院に、「おばあちゃんの病気は何なんだろうねえ。」と、屈託のない笑顔で聞かれ、私は黙り込んでしまった。病室の雰囲気が凍りつく。母が他の話題に変えてくれなかったら、病室から逃げだしていたかもしれない。

 それ以来、私は祖母の顔をまっすぐに見ることができなくなった。また病気のことを聞かれたらどうしよう。でもお見舞いに行かなければ。そのころの私は、毎日がとても息苦しかった。それでも、自分を鼓舞するように、半ば義務感で、病院に通った。

 しかし、その日の祖母はいつもと様子が違っていた。表情が明るい。入院する前のように大笑いをしている。祖母の傍らに、見覚えのない女の人がいて、会話が弾んでいるようだった。和やかな雰囲気の病室。

 母に聞くと、「緩和ケア」をお願いしたといい、その女性は「カウンセラー」の人だった。カウンセラーの人は私にも話しかけてくれ、私も、今の辛い気持ちを吐き出すように全て話した。「今までどおりでいいのよ。」とその人。「お孫さんが笑顔でいるとおばあちゃんも楽しい気持ちになるのよ」と。

 そのとき、私はこころや身体の「重み」がすっと軽くなったのを感じたのだ。私はそれまで、他人に「相談」をしたことがなかった。「困難は自力で解決するべきだ」と思っていたから。しかし、祖母のことは私の処理能力を超えていた。そのあとも、度々その人と話をした。病院はチームで祖母のケアをしていて、たくさんの人が祖母に関わってくれていることを初めて知った。

 祖母の病状は、その後もゆるやかに進行し、疲れやすくなったり痛みがでてきたり、声が出なくなったりした。それでも祖母は、いつも朗らかな笑顔で私たちを迎えてくれた。他の患者さんや看護婦さんと話をしては笑い、手芸品などを作り、毎日を忙しく過ごしていた。「体のあちこちが痛くて、気分が落ち込みそうな時があるけど、何かしていると楽になるんだねえ。不思議だねえ。」と祖母。今思えばそれが「緩和ケア」だったのだ。

 その日は突然やってきた。病室に駆け込んだとき、祖母は既に意識がなかった。でも、私が「おばあちゃん」と呼びかけるたびに、心電図の波形が波打った。それは「もっと生きたい」という祖母の必死な叫びにも、「よく来てくれたね。ありがとう」という優しい返事にも思えた。

 病院を「退院」するとき、祖母に関わってくださったすべての方が玄関に集まり、見送ってくださった。その中にはあのカウンセラーの女性も。思わず駆け寄り、何か話そうとしたが、突然溢れ出した涙で言葉にならなかった。ただ握手をしただけ。でも温かい手。私の涙は祖母を亡くした悲しみだけではなかった。私のこころの「痛み」を取り除いてくれた感謝の涙。私もこんな仕事がしてみたい。私はその時、強く思った。


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