桐蔭学園高等学校 2年

脇    真 理
 

未来に生かす
 
 東日本大震災が起きた日、私は幼稚園の年長だった。私が住んでいた地域の揺れは震度5強で、あの日から今まで、それ以上の強い揺れを体験したことはない。その日は余震が続き、テレビには沿岸部が赤や黄色で囲まれた日本地図が映されていた。帰って来られなかった両親に代わり、祖母と夜を過ごした。当時の記憶はこれが全てだ。

 東日本大震災がどれほど悲惨であったのかを知ったのは中学3年生のときだ。修学旅行で東北地方を訪れることになり、事前学習として震災当時の映像を観た。黒い塊が地面を這い、家も車も人も全てを飲み込んでいき、目を背けたくなるようなものばかりだった。

 修学旅行で最初に訪れた大川小学校の校舎は、想像を絶するものだった。ゴミの分別表、生徒のネームプレート、泥まみれの算数プリント。この場所にも生徒たちの声で賑わう当たり前の日常があったことを、残された物が語っていた。その日常を津波は一瞬で消してしまった。外では、今でも帰って来ない自分の子供を探しに来ている男性がいた。その男性はほぼ毎日、自分の子供を探しに来ているそうだ。震災から8年が経過していたが、その男性の心を動かし続けているものは時間ではないと感じた。

 次に訪れた気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館では、構内見学の後、屋上へ登った。屋上からは、キラキラと輝く海が見えた。8年前、突然姿を変え、街を飲み込んで流し去ってしまったことが信じられないほど綺麗な海だった。インストラクターが「日本は今後も大きな地震がくると言われているでしょ。その時に出来るだけたくさんの人が助かるように今、ここで私たちは学んでいるのだよ。」と話してくださった。被災地を訪れるのは過去を知るためだけではないことを感じた。

 修学旅行で震災について学んでからは、自ら震災について調べるようになった。一番印象的だったのは、語り部の鈴木みはるさん(仮名)だ。震災当時、鈴木さんは岩手県釜石市の中学生だった。釜石では津波によって甚大な被害を受けたが、3千人いた小中学生は殆ど無事で、この出来事は「釜石の奇跡」として注目された。

 しかしこのような称賛に対して鈴木さんは違和感を覚えていた。釜石でも亡くなった方がたくさんいたからだ。また、釜石の奇跡が大川小の悲劇と比較されて語られることもあり、胸を痛めていた。ご遺族の方の気持ちを考えると、自分は大川小を訪れてもいいのかと悩み、約10年間葛藤していたという。

 しかし昨年の7月、研修のために大川小を訪れることになり、初めて大川小の現実を目の当たりにした。その訪問をきっかけに自分も釜石の真実を伝えていかなければならないと思い、「釜石の奇跡」という言葉に隠れた影の部分を伝えるようになった。多くの子供たちが助かった中で、周りの人を助けようとして亡くなった子供たちもいることを。「奇跡」と称賛される中で亡くなった子供たちに光をあて真実を伝えることによって、今後は、そんな子供たちがいなくなるように、少しずつ街を良くしていくことを願っているという。

 人が何かを伝える時には言葉を使う。しかしその言葉では伝わらない事実や消されてしまう事実もある。言葉によって語られないこともあれば、聞き手がその言葉を受け止めないこともある。真実を伝えるためには、時に、人は忘れてしまいたい過去や逃げたい感情と向き合わなければならない。そんな過去や感情と向き合い、自分の体験を未来のために語ってくださる方がいる。その言葉を真摯に受け止め、学び、未来に生かすのが、今を生きる私たちの使命だと思う。

 震災から10年という節目を迎えても、被災された方々があの瞬間を受け入れられるようになることはないと思う。それでも時は流れ、被災地では復興が続いている。みんなそれぞれの記憶のかけらを大切にし、前を向いて生きている。これからも震災について学び続けようと思う。そしてそれを未来に生かしていきたい。


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