翔洋学園高等学校 3年

古 川  優 美 菜
 

東日本大震災の経験を活かして
 
 10年前の私。今の私は夢に向かって進んでいるよ。でも、あの日あの時あの一瞬から日常が一変して辛かったよね。けど、頑張ったよね。

 2011年3月11日14時46分。当時車内で被災した母と私。今までに聞いたことがない音が鳴り響き、外を見たらヤマダ電機の窓ガラスが割れ落ちていく。いったい何が起こった?これこそが東日本大震災だったのだ。

 当時アパートに住んでいた私。家に近づくにつれ、道路に大きな地割れ、アパートの階段は根元の部分から陥没しており、恐怖を感じた。家の中は色々な物が落ち、クローゼットやシューズボックスの扉が壊れていた。鍵がかかっていたはずの窓が開いていた。私は恐怖から涙が出てきた。その様子を見た母が「おばあちゃんの家に行こう。」と。必要なもののみを持ち車へ向かった。祖母宅まで通常車で15分程あれば到着する距離だったが、停電で信号機が作動していなかったことや、何度も来る余震の影響で道路が渋滞していた。

 祖母宅も被害は凄く、食器が大量に割れテレビやミシンは落ち、壊れていた。停電していたこともあり、とても寒かった。夕方には電気がつくようになり、コタツの中に入りいつの間にか寝てしまっていた。その間に祖母は断水に備え、水の確保をしていたようだ。母に起こされたのは21時。いつもならこの時間に寝るのだが、この日は夕食の時間。祖母宅には備蓄があり食事をすることができた。翌日、スーパーに行くと商品棚には何もなかった。

 何日か後には原発事故が起きた。水素爆発によって福島県や隣県に放射能が散らばった。目に見えない新たな恐怖との戦いが始まった。結果、私の健康を優先に考えた両親は区域外避難を決断した。しかし私にとって第二の地獄の始まりだった。

 父の祖母宅がある長崎県に避難した。地震も放射能もない世界。心の底から嬉しかった。そんな私に追い打ちをかけたのはイジメだった。言葉や風習の違いからイジメにあったのだ。担任に相談しても聞いてもらえず、市役所のカウンセラーの方にイジメのことや震災のことを相談するようになった。だんだん心が軽くなってくると、私のことを心配してくれている友達の存在に気付いた。この経験がまだ見えぬ私の夢への小さな一歩となった。

 父の仕事の都合で埼玉県へ避難場所を移動することになった。埼玉県は東日本のためか地震が多く、地震や緊急地震速報の恐怖が再びよみがえってきた。私が福島県で被災したことを知り、寄り添ってくれる友達ができ、心強く思う半面「怖い」という思いが日々強くなり、中学に進学してからは相談員の方やスクールカウンセラー、養護の先生に相談する機会が増えていった。そんなある日、スクールカウンセラーの方から医療相談を勧められた。今通院している病院の主治医との出会いだった。

 東日本大震災から10年経った今、私は友人や主治医、支援者の中の1人である臨床心理士の方に助けを得ながら生きている。相変わらず地震や緊急地震速報が怖く、フラッシュバックしてしまうことも多々ある。昨今、地震以外にも様々な自然災害が起きており、私のように苦しんでいる方がたくさんいると思う。

 高校3年生の今、将来に対しての希望がある。それは臨床心理士になり、心のケアをしていきたいという夢だ。私はこの10年で様々な人と出会い、心の悩みを聞いて寄り添ってもらえた。そのおかげで今の私がいる。あの時の出来事も含め、私のように悩み苦しんでいる人の拠り所になりたい。

 受験勉強はまだ続く。私の心の治療もまだ続く。私の経験を生かすためにも臨床心理士になるという夢を追い続け、将来心の拠り所として皆から愛される臨床心理士になりたい。


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