大阪スクールオブミュージック高等専修学校 1年

井 上  恵 伶 那
 

夢に手を伸ばす意味
 
 人はなぜ夢を見るのか?なぜ生き方を選ぶのか?私には、わかりませんでした。

 私は、音楽と、歌と、舞台が好きです。また思いのこもった言葉が好きで、絵が好きで、相応の覚悟はまだ足りていなくても、私は芸術を愛しています。今はそう言葉に出来ます。少し前までは、それらを「大好きだ」という意味を見失っていました。なぜそうなっていたか。おそらく、芸術の世界で生きていくためには必要なことで、まだ自分に足りていない部分に気付き、それを受け入れられなかったからなのだろう、と今は思います。

 小さい頃から私は癖の強い子供でした。今も変わった人間だと周りの人からは思われ、多分一生そう言われ続けます。けれど、悪い子ではありませんでした。周囲の人をわざと蔑(ないがし)ろにするわけでもなく、むしろ人のことは見知らぬ人さえ放っておけないタイプで、現在もお節介を焼いては逆に怒られてしまうこともしばしばです。一方、それとは対照的に、私を優しい、真面目と褒めてくれる人がいてくれたので、ここにいることが出来ます。本当にありがたいです。

 私は16年間生きてきて、人間は「何か否定し続けること」が、命取りになるのだろうと感じました。人は誰しも好き嫌いが存在し、感覚を変えることはとても難しいです。ですが、人も物も全てにおいて何か見えてくる世界があります。それを否定することは、その世界を受け入れず、年月を重ねるほど積み重なるので、最終的にはどこへも進むことは出来ません。狭い箱庭の中で生きていくことになるのだと思います。それが真理かは分かりませんが、少なくとも私は知ることが出来て本当に良かったです。ずっと私は、私を否定していたのです。

 私が作詞作曲した「jeweliy」という曲に「わかっているのに、どうして私は私のために涙を流すの?」という歌詞を書きました。当時は自身に、どうしてこんな私のために怒りを抱え、涙を流し、笑うのか全く意味がわかりませんでした。人と歩幅を合わせることもままならない自分を、素敵な友達や家族、先生が支えてくださる。不自由ない生活ができて、夢を追うことまでも許される幸福な環境で生きているのか。どうして私の手に余るような幸せを与えられたのか…という問いがぐるぐる回り、私は、どんどん自身に価値を見出せなくなっていきました。

 しかしある時、ようやく気付いたのです。以前までの私は、「意味はいつか誰かが与えてくれるものだ」と思っていました。けれどそれは違いました。生きていく意味も、夢を見てそれを叶える意味も、自分で生み出すものだということに、気付くことが出来たのです。生きることも、自身の夢を掴むことも結局は自己満足です。皆、誰かのためと言っていても、それはその人の喜ぶ顔を「自分が見たいから」です。恵まれるということは、誰しもに与えられるものではありません。そこから幸せを見つけ、生み出すのも自分でしかありません。結果的に、自分がどうしたいかということが鍵になってくるのです。

 私は自身に問いかけました。自分はどうしたいのか、改めて確認しました。私は、私を今まで支えてくれた人への恩返しとして「世界に轟き続けるシンガーソングライターと女優になる」ということを叶えたいと確かに答えました。けれど一番に、私は「好きだからそれで生きていきたい」と、シンプルですが、とても確かな意味を見つけることが出来ました。私は、私のため、そして待っていてくれる人たちの笑顔を見るために、実現させようと思います。私が夢に手を伸ばす意味は、こうして定まりました。いつかその、夢に手を伸ばした決意に「ありがとう」と言える日が来るまで、私は夢を追います。


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