東日本国際大学附属昌平高等学校 3年

佐 藤  菜 々 香
 

あの日から
 
 「机の下に隠れて」。当時保育園の年長だった私の耳に届いたのは、必死に叫ぶ大好きな先生の声だった。11年前の3月11日14時46分、大きな揺れが私たちを襲い、私は初めて感じる大きな揺れにとても恐怖を感じた。家に帰れば床には割れた食器が散乱し、家の中は言葉を失うような光景が広がっていた。

 そんな私が震災について改めて考えるようになったのは、高校1年生の時の学校の探究活動でのことだった。私は探究活動で福島県双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館を訪れた。そこで私は改めて震災の悲惨さを痛感した。行方不明者や被害者の人数、情報などが書いてあるホワイトボード、泥まみれのランドセル、地震発生時の時刻で止まっている壊れた時計。映像や写真だけからではなく当時の物からも悲惨さが伝わってきた。

 翌年の夏には宮城県山元町にある山元町震災遺構の中浜小学校に母と訪れた。そこでは当時の様子を詳しく伝えてくれる語り部の方たちに出会った。当時の先生たちも避難するまで知らなかったというはしごを登り、先生と児童たちが津波から逃れたという屋上を見学させてもらった。「この場所から僕の家が津波にのまれていくと言った子どもがいたんです。」と語り部の方から聞き、私は胸が苦しくなった。自分たちが生まれ、育った場所が目の前で一瞬にして消え去っていく。私は想像も出来なかった。また、先生と生徒たちが実際に避難し夜を過ごした屋根裏も見学させてもらった。そこは天井が低く、あまり広い場所ではなかった。語り部の方は屋根裏で過ごした状況を詳しく教えてくれ、私は当時の被害の大きさを改めて感じた。

 また、震災当時のことを調べていく中で一つの記事を目にした。それは宮城県南三陸町の防災対策庁から防災無線で町民に避難を呼びかけた一人の女性の記事だった。南三陸町は当時津波の被害にあった町だ。その女性は町民に防災無線で避難を呼びかけ町民の約半数の命を救ったのだが、残念ながらその方は亡くなってしまった。もし自分がその女性の立場だったらと考えたとき、私はその女性の最後まで町民を守る姿にとても感動した。

 震災後も何度か大きな地震を体験した。祖父母の家は特に揺れが大きく、何度か片付けの手伝いなどに行った。散乱した食器、倒れた本棚などを見ると震災当時のことを思い出す。祖父母の家の玄関には避難袋があったり、家の様々な場所に懐中電灯が置いてあったりする。その懐中電灯は暗い所で使うためというよりも、万が一の時に備え置いてある懐中電灯だ。どの世代の人でも「もしものとき」に備え準備が大切なんだと改めて感じた。

 震災から時間が経った今でも、大切な人や場所を失った方々はあの出来事を受け入れることはできないだろう。被災地では復興が進んでいき、あの悲惨な被害の光景も薄れていく。しかし、過去を振り返るだけではなく、次の世代のために未来へ繋げていくことが大切だと私は考える。いつ、どこで、誰と。予想外に大きな地震が来た時のために、震災遺構や伝承館、そして実際に「ことば」で伝えてくれる語り部さん達がいる。その中で様々な意見、考え、経験談があると思うが、お互いが向き合い、互いに手を取り合いひたむきに生きて、命をつなげていかなくてはならない。

 あの悲惨な出来事から11年。私も保育園の年長から高校3年生になり災害時には、守られる側ではなく守る側になった。「自分の命は自分で守る」という言葉をよく耳にするが私は自分の命を守ったうえで小さい子ども達や体の不自由な方、高齢者の避難の手助けをすることが大切だと考える。あの時は何も出来なかったが、今度は自分が誰かのために動けるような人になりたい。震災の記憶、経験を大事に、忘れずに心に留め、これからの未来を生きていくことが、現在を生きる私たちの使命だ。


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