富山県立大門高等学校 3年

山 岸    郁
 

一〇〇〇年前の美しさを伝えたい
 
 中学3年生の、国語の時間。その日は、和歌について学ぶ授業だった。私はその授業で、日本語の美しさに心を奪われ、将来、日本語の魅力を伝える仕事をしたいと思った。

 元々、小学生の頃の私は、国語よりも算数の方が得意だった。けれども、学年が上がるにつれて、算数の難易度も上がっていき、ついていけなくなった。一方、国語に対しては、フィーリングだけで解ける簡単な教科という認識をしていた。私は、難しくなる算数よりも、簡単な国語の授業ばかり真面目に受けるようになった。気がつくと、国語の方が得意になっていた。

 中学校に上がり、より深く国語を学ぶ中で、国語はフィーリングだけでなく、論理的に考えることも大切であることを学んだ。そのような、国語の奥の深さを知っていくうちに、どんどん国語が好きになっていった。

 そして私は和歌の授業で、ある歌と出会った。

 『かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを』

 この歌が百人一首の和歌であることは知っていたが、歌の意味は全く分かっていなかった。先生の解説を参考に、自分で現代語訳をしてみると、意味が分かった。その瞬間、私はこの歌の作者と心が通じ合ったような気がした。恋心を伝えたくても伝えられない作者の切ない気持ちに強く共感できた。同時に、私は一瞬にして、日本語の虜になった。

 私が日本語の虜になった理由。それは、和歌に使われていた婉曲表現にみる、日本語の奥ゆかしさだ。『かくとだに…』の歌には恋を表す単語はどこにもない。代わりに、恋心を燃える蓬に例え、好きな人への想いの熱量の凄まじさを伝えている。このような婉曲表現は、古くから謙虚であることが美徳とされてきた日本だからこそ生まれたものである。私には、この「謙虚な日本語」にある、上品さや奥ゆかしさがとても魅力的に感じた。

 しかし、情報社会の現代では、SNSなどで、遠回しな言い方よりも、出来るだけ簡潔に伝える方が良しとされる傾向にある。もちろんこの傾向は日本語が時代の流れに沿って変化した結果であり、批判するつもりはない。だが私は、この変化によって、私の大好きな婉曲表現が人々に受け入れられず、いつか誰からも使われなくなる日が来るのではないかと思うと悲しくなるのだ。

 実際、私の友達には古典の婉曲表現の良さが分からないと言う人が多い。

 「遠回しに伝える意味なんてあるの。」と言い、ついには、「婉曲表現なんかあるから、古典嫌いなんだよね。」とまで言う。

 私は、古典があまり受け入れられていない現状が悔しかった。古典の面白さ、日本語の奥ゆかしさが理解されていないように感じた。

 どうすれば、日本語の奥ゆかしさがいかに素晴らしいかをみんなに伝えられるだろうか。必死に考えた結果、重大な事に気がついた。今の私には、日本語の素晴らしさを十分に語れるほどの知識がないのだ。

 私は、生涯を通して日本語を研究し、誰よりも日本語に詳しくなろうと思った。幸運なことに、私が生まれ育った地域は『万葉集』に所縁があり、〈万葉歴史館〉という施設には、万葉集や上方文学に関する図書・研究論文が8万冊以上保存されている。私は将来、ここで働きながら、研究を行い、日本語に関する様々な知識を身につけたい。加えて、現在、万葉歴史館には豊富な資料があるものの、あまり人が訪れていない。私はこの施設を、たくさんの人が訪れる場所にしたいとも思っている。そして、訪れてくれた人に、普段自分たちが使っている日本語の美しさを伝えるのだ。

 一〇〇〇年前の日本語。その奥ゆかしさ、美しさを私はどれだけの人に伝えられるだろうか。未来の自分を想像し、私は今日も勉強に励む。


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